ロボット修理屋の少女

ロボット修理屋の少女 第11話「第10章」

朝の光はまだ薄く、港の空気には潮と油の混じった重い匂いが漂っていた。歯車文庫の窓から差し込む光は埃の粒を浮かび上がらせ、ラジオの針がLPの浅いノイズの谷を行き来している。菜緒は工房の古い作業台に手をつき、まだ温かい赤いペンチを見下ろしていた。ペンチの柄の金属には細い刻みがあり、そこに蝋のように固まった油の痕が残っている。房雄が差し出したとき、彼はそれを「静が使っていたものの複製だ」と言った。いま、その来歴が計画の鍵になるとは誰もが想像していなかった。

朝の光はまだ薄く、港の空気には潮と油の混じった重い匂いが漂っていた。歯車文庫の窓から差し込む光は埃の粒を浮かび上がらせ、ラジオの針がLPの浅いノイズの谷を行き来している。菜緒は工房の古い作業台に手をつき、まだ温かい赤いペンチを見下ろしていた。ペンチの柄の金属には細い刻みがあり、そこに蝋のように固まった油の痕が残っている。房雄が差し出したとき、彼はそれを「静が使っていたものの複製だ」と言った。いま、その来歴が計画の鍵になるとは誰もが想像していなかった。

藤堂が古い工具箱を開け、そこから取り出したのは薄い金属の円盤と、ささくれた齒車の小片だった。円盤の表面にはかすかな波形が刻まれ、指でなぞると微かに振動が伝わってくる。藤堂は顕微鏡とノイズフィルターを並べ、手早くプロトタイプの筐体にそれらを組み込んでいく。彼の指先は淡い電流のように正確で、だが目の奥には冷静さだけでは説明できない焦燥が見え隠れしていた。

「これがあれば、軸の暗号化波形を局所的に再現できるはずだ」と藤堂は言った。器具には古いLPの針を模したセンサーがつき、その振幅を分散ノードの鍵に合わせて変調する仕掛けだった。彼は説明を続ける。「軸は単一の復元機構じゃない。静は保存のための“振幅の断片”を複数のキーに分けて隠した。コアはそれらを照合して初めて完全な復元を許す。だが照合には‘特定の触感’が必要だ。つまり――菜緒の継写が必要だ」

言葉が、工房の空気を少し重くした。菜緒の掌に汗が滲む。継写を実行するための条件は、彼女自身が知っている通り厳格だ。直接触れること、赤いペンチを使うこと、絶縁布で接触部を仕切ること、そして声を掛けること。失った記憶の代償はすでに彼女の中で形を成しており、彼女はすべてを帳消しにできる魔法のような救済ではないことを知っていた。

房雄は古い布箱を開け、そこから一枚の薄い金属片を取り出した。片面に彫られた小さな斑点は、菜緒の赤いペンチの刻みとぴたりと一致していた。房雄はゆっくりと息を吐いた。「これはね、昔、静と俺が共同で作った小さな工夫だよ。ペンチの柄にこのパターンを彫っておけば、特定のカムロックが反応する。コアの代替保管庫には、その形状のキーが必要なんだ。だが格納庫そのものはネオ・クレストが管理している。展示の搬入のときに代替保管庫へ移す――そこが狙い目だ」

ユウタが拳を握りしめ、床に転がっていた紙片を掴んだ。そこには、展示会のスケジュールと運搬車両の列車区分、そして「代替保管庫に移動済み」という小さな赤の走り書きがあった。藤堂の目が鋭く光る。「搬入のタイミングが一瞬だ。混雑と人の流れに紛れれば、物理的な接触は可能だ。ただし、管理局の監視カメラ、ネオ・クレストの監視ロボも増員している。真正面からの侵入は自殺行為だ」

計画は簡潔になっていった。ユウタが外部の混乱を引き起こす役割を負い、搬入経路に小さな渋滞を作る。ロクサ――まだ内部に損傷の残るが外見は修繕した昔の家事ロボ――は役目の演出に使う。藤堂はプロトタイプの小型ノードを用意し、それを運搬車の荷台に忍ばせて代替保管庫の近傍で動作させる。房雄はかつての協働者として搬送品の扱い方を知っており、ペンチの刻印を使える可能性が高い。菜緒はその場で継写を行い、軸の照合を助ける――そんな仮設が並んだ。

だが、具体的な手順を詰めるほどに、菜緒の胸に冷たい穴がぽっかり空いていく感覚が戻ってきた。前回の継写で失われた光景、房雄の顔の輪郭が消えかけて以来、彼女は自分の記憶の扱いに神経質になっている。藤堂はそのことに気づき、優しく尋ねた。「今回、どれだけ使える? 君には回数制限がある。今ここで全力を出すと、重要なものをまた失うかもしれない」

菜緒は赤いペンチを握りしめる。柄の刻みが掌に食い込み、古い金属の冷たさが指先に伝わる。彼女は言葉を選んでから答えた。「私はもう、あんまり残ってない。だけど、もしコアに触れて軸の復元が始まれば、ロボたちの癖を救える確率が上がる。分散のプロトタイプは藤堂が作れる。でもそれを起動させる鍵の最後の揺らぎは、私の継写しか生み出せない」

藤堂は黙って彼女の目を見た。ノイズフィルターのLEDが微かに赤く点滅する。房雄が静かに言葉を挟む。「静のやり方は、保存するために代償を払うことを覚悟していた。俺たちも、同じ穴を掘るわけにはいかない。だが、あいつはいつも最後に人を信じる回路を作っていた。菜緒、君が選ぶ道は二つだ。今一度全部を投げるか、或いはもっと小分けに賭けるか」

その「小分けに賭ける」案が場を支配する時間軸を作った。藤堂はプロトタイプの設定を調整して、継写が生成する波形を最大でも三回に分割して送れるようにした。つまり、菜緒は一度に全ての出力を出さず、三段階に分けて軸の各断片と同期させることができる。だがその分だけリスクも増える。分割した波形の合致が途切れれば、軸の自己防衛機構が起動する恐れがある──静が設計した保存優先の“逆回転”が、暴走に変わるかもしれない。

「三回か」菜緒は自分の声を確かめるように繰り返した。波形の断片が部屋の空気を震わせ、LPノイズがその振幅に反応して小さなうなりを上げる。「もし、一回目でかすりもしなかったら――」彼女は言葉を飲み込んだ。失敗したときの代償は計り知れない。だが何もしないことはもっと怖い。ロクサの損傷は深い。仲間の躊躇はもう許されない。

ユウタが肩をすくめ、言った。「俺は外で渋滞を作る。人の流れを操るのは得意だ。だが、もし失敗したら俺が全部背負う。いいか、菜緒。お前は一回でも多くの癖を救ってくれ。俺はここで払える代償なら払う」

藤堂はノードの最後の配線を閉じ、目の前に小さな光の球を浮かべたように指を動かす。「この器具は、軸の信号をロックするための“共鳴子”だ。軸が近接する一定の波形を感知すると、照合プロトコルを要求する。菜緒の継写はその要求に応答する鍵。三段階で同期すれば、分散ノードのいくつかに同時に暗号断片を配ることができる。成功すれば、我々はコアを直接持ち帰らずとも、その機能を封じたまま分散保存モードに移行できる」

説明は理路整然としていたが、菜緒の内面の針は止まらない。彼女は以前、継写のたびに何かを失うことを経験している。名前や匂い、小さな出来事の断片がぽろぽろとこぼれ落ちる。房雄の顔、ロクサの配達先の店の看板、夜に食べたご飯の記憶。日常を形作る些細なものが、いつの間にか地図から消えていく。彼女はそれを拾い集める術を持たない――ただ、失くしてから気づくのだ。

だが、目の前のユウタの決意、房雄の震える手、藤堂の組み立て図がある。菜緒はゆっくりと息を吸ってから、口を開いた。「分割でやる。三段階。でも――もし途中で私が出せなくなったら、プロトタイプは停止して。無理に続けないで」

藤堂は頷いた。「そうする。一回ごとに復元値を記録して、失敗したら自動停止。君の安全を最優先にする。それでも、完全に守れるわけじゃない。だが最善は尽くす」

房雄は彼女の手を取り、その掌に自分の熱を伝えた。少しの間、二人の間に言葉はなかった。やがて房雄は昔の話をぽつりと始めた。「静はね、俺にこう言った。‘記憶は一つの器では