ロボット修理屋の少女 第12話「第11章」
夜のネオ・クレスト本部は、風折市の港に浮かぶ月光を映して黒く光っていた。外壁は新材のパネルで覆われ、工房の木板とは逆の冷たさを放つ。灯りの少ない通路を三人が身を縮めて進む。ユウタは細い影を縫うように走り、藤堂はプロトタイプを収めた箱を背負い、房雄は古い工具箱を抱えていた。ロクサはその尾のように控えめに歩き、人々の注意を逸らすための小さな音を立てる。菜緒は赤いペンチを胸に当て、絶縁布を手首にもう一度巻き直した。夜の空気は錆びと油と、微かに海の塩の匂いを混ぜてきた。
夜のネオ・クレスト本部は、風折市の港に浮かぶ月光を映して黒く光っていた。外壁は新材のパネルで覆われ、工房の木板とは逆の冷たさを放つ。灯りの少ない通路を三人が身を縮めて進む。ユウタは細い影を縫うように走り、藤堂はプロトタイプを収めた箱を背負い、房雄は古い工具箱を抱えていた。ロクサはその尾のように控えめに歩き、人々の注意を逸らすための小さな音を立てる。菜緒は赤いペンチを胸に当て、絶縁布を手首にもう一度巻き直した。夜の空気は錆びと油と、微かに海の塩の匂いを混ぜてきた。
「外からの合図は……?」藤堂が囁く。彼の声は慣れない緊張でざらついていた。プロトタイプの動作ランプが時折青く瞬く。あの小さな装置が、この夜の成否を左右する。
ユウタが笑いながら指先で合図をした。外の広場で何かが起きている。事前に彼が仕掛けた小さな展示物と人だかりが、セキュリティの一部を吸い寄せるはずだ。計画通りなら、正面の監視は弱まり、裏道の保守用入口に僅かな隙間が生まれる。
「頼むぞ、ソウマ」房雄の声が震えた。年寄りのくせに、あの声は静かな決意を宿している。菜緒は小さく頷いた。彼らの目はみな、彼女の赤いペンチを見ていた。あの刻みのついた金属が、ここ数日で彼らにとっての約束になっていた。
潜入は、想像よりずっと身体感覚の密度を要求した。冷えた金属の匂い、床の微かな振動、壁面に沿う換気ダクトの低いうなり。藤堂が小さな端末を差し入れると、ランプが緑から黄へ移り、やがて小さく青く震えた。プロトタイプは一時的に活動した。蓄積した波形が箱の中で漂い、LPのノイズが脳裏で薄く共鳴するようだった。
しかし、いまはやるべきことがある。藤堂が指で示す出口で房雄が立ち止まり、小さな金属製の蓋を外した。そこに繋がる配線は古い回路規格だ。ネオ・クレストの内部に、かつて静が残した断片が残っている。封印のネジと同じ種類のもの──小さくて錆びた、だが形状に意味のあるネジが、菜緒の胸の奥で何かを震わせた。
「ここだ」藤堂が低く言った。「ここに接続して、君の継写で最初の同期を取る。成功すれば、その小さな波形でプロトタイプが鍵を広場にばらまく。分散ノードに降ろすんだ。だが、万が一割り込まれたら自動遮断を」
菜緒は赤いペンチを握り直す。条件はいつもと同じだ。直接触れること。工具は自作の赤いペンチ。絶縁布を巻くこと。声をかけること。禁止事項も頭にあった。攻撃回路には触れない。人の脳には触れない。代償は避けられない。継写ごとに一つ、日常の記憶が抜け落ちる。その代償を重ねれば輪郭はぼやける。だが四人はその重さを互いに背負うと誓ってここにいる。
房雄が蓋を押し込み、接点を露出させる。そこに菜緒は赤いペンチを当て、低い声で呪文のように語りかけた。手触りは冷たかった。錆の粉が微かに指に付く。声を絞ると、ラジオのノイズが不思議に大きく広がった。藤堂のプロトタイプが共振を始め、円盤状の光が床に小さな同心円を描く。
最初の継写は静かに決まった。波形は一致した。プロトタイプは鍵データを受け取り、短いパルスを作り出した。外の広場の一角で、計画された演出がぴたりと合い、瞬間的に人の流れが増えた。ユウタの顔が遠くに見え、親指を立てるのを菜緒は認めた。
だが成功の代償は即座に現れた。菜緒の中で、小さな箱がぽんと跳ねるように消えた。今朝食べた朝ごはんの匂いの記憶が、ふいに溶けてなくなった。房雄が昨夜持ってきてくれた煮物の味、ユウタの笑った時の歯並びの一本。些細な欠片だが、一つ抜けた地図の穴のように周囲を不安にした。
「大丈夫か?」藤堂の声が緊張している。菜緒は首を振った。目の前の世界は確かだったが、内側に空洞が出来ている。前世の静の匂いがぼんやりと混ざり、青いジャケットの記憶が胸の奥でざわめいた。だがそれは即座に掠れ、より古い声が耳の中で低く響いた――〈より深く〉。
二段目を取るかどうかの時間は短かった。プロトタイプの光はまだ揺れている。ネオ・クレストの監視システムが異常を感知するまでの余裕は、藤堂の試算でせいぜい数十秒だった。ユウタが外で作った波はまだ持っているが、もう一度の同期が必要だ。房雄は手を伸ばし、菜緒の肩に手を置いた。冷たい手だが確かな重さがあった。
「行け、菜緒。私が見るから」房雄の声は遠かったが、確かにそこにあった。彼の目には、若い頃に誰かと作業をしたときの疵のようなものがちらついていた。赤いペンチの刻みの由来を知る者の視線が、彼女を押した。
菜緒は再び赤いペンチを接点に当てた。声を潜めて、前世の断片に縋るように言葉を紡ぐ。プロトタイプは二段目の鍵を吐き出し、光が増幅した。外の演出は期待通りにセキュリティの目を更に引きつけた。だがその瞬間、建物の別の区域で警報が鋭く鳴った。照明が走り、金属的な足音が遠くから断続的に迫る。
「割り込みだ! 遮断が来る!」藤堂が叫んだ。端末のランプが赤く点滅を始め、同期は不安定になった。プロトタイプに供給される電力が揺らぎ、装置の外殻が高く軋む。藤堂が必死でパラメータを抑え込むが、遠隔からの強制遮断が始まれば、ここでの全てが泡になる。
そのとき、房雄が決定的な行動に出た。彼は機械の蓋をしっかり押さえ、背中で扉を抑えるようにしていた。周囲の配線を手で繋ぎ直し、外からの遮断信号を機械的に遅らせるために古い手技を使っていた。動きは辛そうだ。年寄りの腕には力が入りにくくなっているはずだが、彼の指が震えながらも確かな作業を続ける。
「房雄さん、離れて!」藤堂が叫ぶ。だが房雄は笑って答えた。「ここは俺の得意分野だ。忘れたかね、十夜静と一緒にやってた頃を」彼の声に、微かな懐かしさと痛みが混じった。
その手際が功を奏した。遮断は完全には間に合わなかった。プロトタイプは短時間、しかし確実に動作し続けた。だが代償が来る。建物の別の通路から、冷たい光線が飛んだ。ネオ・クレストの内部警備が強硬策に切り替えたのだ。鉄製の格子が落ち、煙と火花が散る。房雄は機械を押さえたまま、背中に重い衝撃を受けた。床に倒れる音がした。
「房雄!」菜緒は叫び、赤いペンチを握る手が硬直した。しかし藤堂が引きずるようにして装置を起動維持した。ユウタが遠くで叫んでいる。ロクサが小さなランプを飛ばして煙幕を作るように動いた。ユウタの機転が、外の人の流れを作ったのだ。彼の騙しは確かに時間を稼いだ。だがそれは房雄の背中を張り付かせる形の時間だった。
房雄は重傷を負っていた。腹部に深い損傷を受け、息が浅い。彼は床に顔を伏せながらも、かすれた声で何かを言った。菜緒は駆け寄り、彼の顔を覗き込んだ。房雄の目には、驚くほど確かな光が残っていた。「……守れ。あの子の……」彼はかすれ、言葉が崩れた。菜緒は彼の手を取り、彼の生暖かさを確かめる。彼女は自分の中で何かがまた一つ欠けるのを感じた。房雄の瞳の奥に映る誰かの顔──それが彼が守ってきた記憶なのだと、彼女は直感した。
「行け!」藤堂が叫ぶ。プロトタイプの光が最後の布石を吐き出す。同期の波形が外へ放たれ、短時間のうちに分散ノードへ鍵が送られた。箱の中のデータが動き、藤堂は疲れた手で操作を止めた。外では人々がざわめき、警備が混乱して