ロボット修理屋の少女

ロボット修理屋の少女 第10話「第9章」

夜の歯車文庫は、昼間の喧騒を脱いだ港のように静かだった。雨上がりの潮の匂いが戸の隙間から流れ込み、棚には古い配線図とビニールのジャケット、削れた歯車が積み上げられている。ラジオは微かにノイズを吐きながらLPを回し、針が溝を齧るような擦れる音が暗がりを満たした。いつもの夜勤のはずだった。

夜の歯車文庫は、昼間の喧騒を脱いだ港のように静かだった。雨上がりの潮の匂いが戸の隙間から流れ込み、棚には古い配線図とビニールのジャケット、削れた歯車が積み上げられている。ラジオは微かにノイズを吐きながらLPを回し、針が溝を齧るような擦れる音が暗がりを満たした。いつもの夜勤のはずだった。

だが、その静寂が何かの合図で断ち切られる。鉄扉にぶつかる金属音、複数の足音、そして外灯を回る赤い監視灯の反射。ユウタが窓に近づき、外の路地を覗き込んだ。

「来た。思ったより早い」彼の声は低く、しかし震えていた。

戸口を叩いたのは、ネオ・クレストのロゴ入りの黒いコートを着た数人と、見慣れた回収屋の男たちだった。公的な身分証を掲げる者はいない。声には命令があり、面構えには回収業者の冷徹さがある。外側には、動力管理局の監視レポートの影すら見える。ネオ・クレストと回収屋の連携が、ついにここまで及んだのだ。

「ここは一般市民の修理工房だ」と房雄が扉越しに言った。年老いた声だが震えはない。赤いペンチを胸に抱え、影のように菜緒の後ろに立つ。

「内部に不正所持の記憶媒体があると通報がありました。危険物は押収します」男の声は機械的で、脅し文句を繰り返す。押収を口実に入ってくるのだ。

扉が勢いよく横へ引き開けられる。光が差し込み、金属の摩擦と靴底の擦れが混ざって、工房内の小さな秩序が瞬時に乱れた。棚の間を走り抜ける影。ロクサはその最中に、咳のような雑音を一つ漏らした。いつもは穏やかな家事ロボが、今は片側の関節をぐらつかせ、膝元から火花が散っている。

「ロクサ!」菜緒は駆け寄る。体内から聞こえる異様な波形、LPノイズの帯域に変調が生じている。誰かがロクサの通信ポートに手を入れたのか、あるいは軸の信号が遠隔で注入されたのか。ロクサの表情モジュールが一瞬、昔の配達先の顔を浮かべ、そして崩れた。

傍らの男が言った。「無駄だ。保存指令の有無を確認する。旧式の癖は危険だ。証拠品を確保する」

ユウタが前に出た。彼の顔は厚い汗で濡れている。ふと、男の一人が彼を見る。その目に一瞬、驚きと嗤いが交る。

「お前、こないだの件を覚えているか? 例の小口の取引、ネオ・クレスト直系の回収ルートに流したやつだろう」

空気が凍る。ユウタの手が小さく震える。過去の取引。彼が町の生活費を稼ぐためにこっそり売り飛ばしたパーツのことが、ここで露見する。売ったのは小さな歯車の断片――だが、それは軸の断片と一致する暗号列を含んでいた。売り先の記録と今回の襲撃が繋がる。回収屋の男たちはそれを証拠として突きつけるようにユウタを見据えた。

「説明がある」ユウタが絞り出す。声は細い。だが、言葉の裏を知る者の視線はもう冷たい。藤堂が彼を見る。怒りではなく、失望が先に立つ表情だ。

攻撃は混乱の中で進んだ。男たちは棚を探り、箱を開け、タグをひっくり返し、軸片のようなものを見つけると興奮したように脈打つ光を当てた。工房の一角に置かれていた保管箱が乱暴に開かれ、そこにあった一つの金属片が、まるで呼吸をするようにノイズを増幅した。

それは、小さな円盤。中心にひび割れのような刻みがあり、表面には古い油と匂いの層が堆する。菜緒はそれを見た瞬間、胸の奥で何かが強く呼ぶのを感じた。前世の静の欠片。藤堂が解析した座標系と波形が、それと一致することを示している。だが今は暴力が先にあり、軸の断片は暴走し始めていた。

ロクサが暴走した。彼は近くに転がっていた落し物を次々に集め始めた──それはもはや「届ける」という癖の忠実な再現ではなく、まるで何かを守るための挙動だった。配達先のリストを読み上げる合成声が断続的に響き、最後に高い音が一つ、ノイズの谷間から立ち上がる。空気が歪むように感じられた。

回収屋の一人が手を伸ばし、ロクサの制御パネルに触れた。彼の指先には、明らかに攻撃用ではないが利得を求める所業の冷たさが滲んでいる。「中和する」と男は言い、回路の一部を繋ぎ替えた瞬間、ロクサの胸部から火花と黒煙が上がった。

「やめて!」菜緒は手を伸ばした。赤いペンチを握る指先に血の色のような決意が滲む。触れる条件がある。直接触れ、赤いペンチと絶縁布、そして声を掛ける儀式を行うことでしか継写は働かない。禁止事項もある。攻撃回路――武装プロトコル――には手を触れてはならない。だが今、目の前では単純な修復の範疇を超えた暴力が行われている。ロクサを止めるためには、癖を再生させるしかない。だが再生は、彼女自身の記憶の喪失を意味する。

菜緒は息を吸い、両手をロクサのむき出しの断面に添えた。工具箱から赤いペンチを取り出し、絶縁布で耳を塞いで低く呼びかける。条件が整うと、頭の中に静の断片的な設計語彙が流れ込む。それは甘美で危険な旋律のようで、LPのノイズと干渉して立ち上がる。

「お願い、聞かせて。あなたが守りたかったものを、教えて」

手のひらに伝わる金属の冷たさが、軸の記憶の熱を返す。菜緒は触感をなぞり、偏向した位相を整えようとする。ロクサのシーケンスが一瞬だけ揺らぎ、配達リストの一つが復元された。だがその瞬間、菜緒は胸の奥から何かが抜かれるのを感じた。語りかける前には確かにあった一つの記憶が、しゅるりと抜け落ちてゆく。

「ど、何を忘れたの?」藤堂が必死に問うが、菜緒の目は遠くを見ている。口から出たのは小さな言葉だけだった。

「房雄さんの顔が……」声は風に消え入りそうだ。彼女の指先が微かに震える。房雄の掌の皺や呼吸の癖、彼の匂いを結びつける記憶の輪郭が薄れた。彼の顔が絵画のようにぼやけてゆく。

「そんな――」房雄が急に顔を強張らせた。それは怒りでもなく嘆きでもなく、痛みを噛み締めるような表情だ。ユウタは足を止め、顔を伏せる。藤堂は解析機の光を見つめ、冷静さを保とうとする。

だが時間はない。ロクサはガーッと短く断続的な音を立て、胸からは焼夷的な臭いが漏れる。回収屋の男たちは機器を片手に、展示物らしき軸の断片を抱えて外へ出ようとする。ネオ・クレストの傭兵の一人が箱を掴んで外へ運びながら、ふと倒れかけたロクサの顔を見て、嘲りのように口を開く。

「感情のバックアップ? 旧式のロマンだ。情緒のために安全を犠牲にする余裕はない」彼は肩を竦めた。言葉は冷たく、計算された侮蔑だ。

その瞬間、ユウタが叫んだ。「違う! 俺がやった! 俺が売ったんだ、あの歯車——でも、金は借金の利子に消えた。誰かを助けるためだったんだ。止めてくれ、ロクサを!」

告白は空気を震わせた。仲間の間に鋭い裂け目が走る。藤堂の目に怒りが滲む。房雄はゆっくりと床に手をつき、息を整える。ユウタは両手を差し出しているが、その手は震えている。彼がしたことは許されるべきではない。だが同時に、それは小さな町の脆さと成り行きが生んだ結果でもあった。正義と現実の境界が、ここで垣間見える。

菜緒は固まったまま、ロクサに耳を当てる。信号には雑音の中に引き裂かれたようなコード列が混じっている。軸の断片は、外部から注入された同期信号と結びつき、ロクサを狂わせたのだ。彼女はもう一度、手を動かすしかないとわかっていた。だが代償は容赦ない。すでに一つ、重