銀河ラジオの少年 第6話「第5章」
夜はまだ厚く、街灯の円い輪が通りに落ちていた。窓の外から聞こえる足音と、たまに飛び交う声が夜鳴局の壁に反響する。透はブースの椅子に座り、青い染みのついた葉書を掌に載せたまま、指先でその縁をなぞる。紙の縁は幾重にも皺を重ね、インクの跡はまるで薄い潮のように広がっている。匂いは古い図書館に似て、遠い夏の匂いと煤(すす)の混じったものだった。律子が言った仮説が、彼の胸の中でひとつの光点になっている。染みは単なる水跡ではない。古い電波結晶の微粒子が紙に残ったものかもしれない──そうだとすると、この葉書は単なる便りではなく、縫いの道具に近い。
夜はまだ厚く、街灯の円い輪が通りに落ちていた。窓の外から聞こえる足音と、たまに飛び交う声が夜鳴局の壁に反響する。透はブースの椅子に座り、青い染みのついた葉書を掌に載せたまま、指先でその縁をなぞる。紙の縁は幾重にも皺を重ね、インクの跡はまるで薄い潮のように広がっている。匂いは古い図書館に似て、遠い夏の匂いと煤(すす)の混じったものだった。律子が言った仮説が、彼の胸の中でひとつの光点になっている。染みは単なる水跡ではない。古い電波結晶の微粒子が紙に残ったものかもしれない──そうだとすると、この葉書は単なる便りではなく、縫いの道具に近い。
「準備はいい?」結がブースの戸口に立ち、いつもの古い作業着の袖をまくっていた。手にはハンダごてと細い補修用の線材。結晶箱の蓋は開けられ、いつもより薄い光が箱の内面で揺れている。縁に新しい微細な亀裂が走っているのが、透にもはっきり見えた。
ロウは外を回ってきたばかりで、息を切らせながら帽子を取った。「局の近くに、落書きが増えてた。黒い布の連中──縫切の印だ。大きくはないけど、目立つ位置に描いてあった。郵便受けのすぐ脇だ」ロウの声はいつになく低い。彼は腕に幾つかの古い切手と一枚のスナップ写真を押し込んでいる。写真には薄く焦げた紙片と、暗い布に描かれた鉤爪の紋様が写っていた。透は写真の真ん中に、かすかに壁文字の一部に似た曲線を見つけた。あの局の壁に刻まれた文字に似ている。
「縫切の印が近づいているのか……」結は短く吐き捨てるように言った。「公には動けない。査察の件もある。だが物理的な威嚇は既に始まっている。ここで負けるわけにはいかない」
律子は端末の画面を透に見せた。古い放送ログの断片、手書きのメモ、そして埃にまみれたコピーの一枚。そこには「星縫(ほしぬい)」という語が、古字体で書かれていた。行の合間に、縫い針のような光を例えた表現。律子の指がその語をゆっくりなぞる。
「これ、見て。『星縫──放送を以て記憶を縫う者、針は電波にして世を繋ぐ』って書いてある。断片的だけど、技術的な手順と代償についても触れている。記録が欠けているけど、前世の役職名と、それに付随する倫理が刻まれている」律子は言葉を選びながら続けた。「夢に出るあの放送室の描写と一致する。透、あなたが見てるものと、古記録が接点を持ち始めている」
透の胸の中で、前世の針が確かに震えた。夢の断片が夜ごとに濃度を増し、放送室の木製の床、壁にかけられた古風なダイヤル、そして針のように細い光線が重なり合って一つの縫い目を描く映像が、瞼の裏に現れては消える。見るたびに、その光は彼の手の中で微かに温かさを持つように感じられた。だがそれは同時に、吸い取られる感覚を伴った。律子の言う「代償」が、現実のものとして近づいてきている。
「条件は知ってる。放送中に読み上げること、過去の確かな事実に限ること、未来の指示は禁止──」透は声を低くして言った。自分の中で、能力の規則を改めて確認する。条件は明瞭だが、心の奥ではもっと単純な欲望が渦巻いていた。もっと多くを救いたいという欲。消えかけた夜空の灯を増やしたいという衝動。
「代償は?」結が訊く。結の目は真剣で、技師としてだけでなく、一人の守り手として問いかけている。
律子は解析端末のデータを透に差し出した。先日の読み上げで失われた記憶のプロファイル、今回予測される損耗の種類。数字はやけに冷たい。
「今回の読み上げは、感覚の記憶、特に『身体感覚の細部』に影響が出る可能性が高い。前回の代償は嗅覚のフラグメントだった。今回の葉書の内容は家族の生活に関するものが多く、感覚的な描写が濃い。つまり、父の笑顔や手の温度、そうした感触が失われる確率が上がる」律子の声は淡々としているが、その眼差しは厳しかった。
ロウが拳を握りしめる。「それでも読むのか? ただでさえ縫切の印が近い。読み上げて、もし結晶にもっと亀裂が入ったら局そのものが危ない。お前の体が薄くなっていくのも見たくない」
透は息を吸った。胸の奥に、幼い頃に父が笑ったときの光景が灯る。手を差し伸べる大きな手、海辺で投げた小石の跳ねる音。父の笑顔は彼の中で何よりも安心できる景色だった。だがいま律子が示した図が、もしその笑顔を奪うというのであれば──。
「でも、もし僕が読まなければ、あの星は消えてしまうかもしれない」透の声は小さく、しかし確固としている。「葉書に書いてあることは確かだ。子どもが提灯を作ったって、祭りの日に父と歩いたって。これを確認してやれば、ひょっとしたらまた光が戻るかもしれない。僕にはそれができる。代償が何であれ、選ぶのは僕だ」
結は透の手を取った。木の肌のように堅いその掌からは、揺るがない支持が伝わる。「分かった。やるなら、できる限り結晶のダメージを抑える。補強案は考えてある。だが、ひとつだけ約束してくれ。代償を受けた後、もし透がおかしくなったり、自分を見失ってしまったら、俺たちが止める。透は一人で背負う必要はない」
約束の言葉が、透の胸の中で静かに燃えた。ロウも小さく頷いた。外の路地にはまだ、縫切の影が漠然と動いている。局の中ではミミが送信機のそばで丸くなり、時折小さな喉鳴らしをする。彼らは夜鳴局という場を守るため、それぞれの方法で手を動かしていた。
午前二時の鐘が遠くの塔でひとつ鳴る。ブースの灯りがわずかに揺れ、透はマイクに向かって深く息を吐いた。放送が始まる条件は整っている。だが今夜はいつもよりも緊張が重い。律子の解析が示す通り、結晶の亀裂はじわりと広がり、箱の中で光の筋がかすかに散っている。彼らは補修資材を持ち寄り、結は慎重に箱の周囲に細い銅線を巻き付けていった。彼の指の動きは速く、しかし丁寧だった。局の古い真空管が温かい小さな火花を吐き、室内の空気は匂い立つように加熱された。
透は葉書を読み上げ始める。声は夜の帯域に擦り切れたように溶け、遠くの星へと伸びていく。一行目は簡潔だった。「夏祭りの夜、提灯をぶつけて父と笑った。」言葉は過去の事実だけを切り取るように、装飾を避けて紡がれた。放送は干渉を起こし、スピーカーからは微かなノイズと共に、遠方からの応答が返ってきた。かすれた「ありがとう」の言葉。誰かの息遣い。短い電子音。
読み進めるうちに、透の視界は次第に濃くなる幻視に覆われた。古い放送室の木の床、低い円環の照明、そして針のような光が空間を縫っていく。幻視は鮮烈で、同時に現実の五感を喪わせるように作用した。透はふと、自分の掌に父の手の温度を確かめたくなった。だがその感触は、読むごとに薄れていった。最後の一行を口にした瞬間、胸の中の父の笑顔が、紙の破れ目から風に吹き飛ばされるように消えた。
「消えた?」結が訊いた。律子はデータをスクロールし、画面の数値を指で追う。端末のログには、透の心拍の急激な低下と、ある種の感覚関連領域の電位低下が記録されている。結晶の箱の中で、鋭い小さな音がした。箱の縁の一つに、新たな亀裂がひとつ、はっきりと走ったのが見えた。
透は掌を見た。そこにはもう、父の手の温度を思い出す確かな感覚がなかった。記憶の輪郭が薄く、写真の色が褪せるように、彼の内側から何かが削ぎ