銀河ラジオの少年 第7話「第6章」
郵便受けの底で、青が重なっていた。
郵便受けの底で、青が重なっていた。
普段はゆっくりと山のように溜まる葉書が、その夜は一度に波のように押し寄せてきた。封筒の縁に滲む淡い藍。指先で触れると、微かに塩の匂いと古い磁気のような嗅ぎ分けができない匂いが混じっている。透は息を飲み、束を抱えるようにしてカウンターの上に置いた。夜鳴局の小さな放送室の窓の外では、路地の電灯が雨上がりのように濡れて光っている。午前二時に近い、世界が一層静かになる時間だ。
「こんなに一度に……」結が唸る。結は手にした葉書の一枚を裏返し、短い行の文字を追う。律子は端末の画面をスクロールしながら、幾つかの差出人名を突き合わせた。ロウは帽子を深く被り直し、外の見回りをするためにドアに手をかける。ミミは送信機のそばで背中を丸め、金属の尾をゆっくりと揺らしている。
「同じ系統だ。場所はばらついているけれど、時間的な変動の仕方が一致する」律子が静かに言った。彼女の声はいつも通りに冷静だが、目の奥にある焦燥は隠せない。律子の解析画面には、複数のログが重なり合っていて、その山はほとんど同期しているように見えた。
透は束の中の一枚を取り出した。表には短い文が、簡素な筆跡で書かれている。「夏祭りの夜、提灯をぶつけて父と笑った」。その下に、真っ直ぐな一行が付け足されていた。局の壁に刻まれたあの、短い文句に似ている──「ここを縫え」ではないにしても、同じ節回しの古風な語感があった。裏面の端には、淡い青い染みがにじんでいる。Aの染みが、複数の葉書に集中している。律子が見た瞬間、わずかに顔を強ばらせた。
「これは……触媒みたいだ」ロウが手を伸ばし、染みを指の腹で擦る。指先に付いた青の微粒子は、光を受けてぼんやりと光るようだった。「俺が見てきた古い電波結晶の砂粒に似てる。奴らの言う‘証票’かもしれないな」
過去の経験と理屈で繋ぎ合わせる律子の声が、透の胸に冷たい現実を突きつける。Aの染み――それが、これまでの小さな再確認で見られたものよりも濃く、今夜は束になって集まっている。もしそれが触媒なら、効果は大きくなる。効果が大きいということは、代償もまた大きいはずだ。
「条件は変わらない。放送中に読み上げること。過去の‘確かな思い出’であること」律子は言葉を重ねる。「禁止は同じ。未来の指示や改竄はできない。ただ、過去を照射して存在確率を再確認する。もしこれが触媒として働くなら、一度に多数を読むことは可能だが、Dの消耗は指数的に進む。電波結晶の寿命が縮む」
結は葉書の束を見つめ、ゆっくりと両手でこぶしを作った。「補強はできる。だが限界はある。透、どうする? 一枚ずついくか。それとも――」
透の胸の奥に、母の手のぬくもりが差した。幼い頃、夜台所で母が小さな茶碗を差し出すときの指の細さ、歌うような声で茶碗の縁を拭いていた時のそっとした動作。母の笑顔は、彼の中で最後まで灯っていた温度だった。父の笑顔は既に消えた。父の手と海の跳ねる音が、先の放送で風に吹かれてしまったばかりだ。胸の穴が、また開く。
「もし、これを読めば、星々は助かる」透は小さな声で言った。「でも同時に、もっと大きな代償が来る。律子の計算通りだと、何割かの個人的な記憶が消える。前に、父の笑顔を失った。次は……母かもしれない」
透は選択の重さを指先で確かめるように葉書に触れた。その感触は、紙とインクの冷たさだけだった。夜鳴局という場を支えているのはいつもそういう冷たい現実だった。誰かの温かさを守るために、自分の温かさを減らしていく仕事だ。
「あなたが決めるんだ」結が言った。彼の声は優しいが、決意が滲んでいる。「どちらにしても、俺たちは透のそばにいる。止めるって約束はする。だが、選ぶのは透だ」
ミミが小さく喉を鳴らす。ロウはドアの前に立ち、外の路地を眺める。縫切の影はまだ動いている可能性がある。外敵の干渉は、放送の最中に新たな波乱を起こすかもしれない。だが今、透の前にあるのは差し迫った時間だ。午前二時の鐘は遠くで確かに鳴り、ブースのランプが静かに温度を上げる。
「全部、読む」透は言い切った。声に震えはない。震えないように努めたのでもない。決意が、揺るぎなくそこにあった。彼は自分が何者であるかを問い続けていた。夜鳴局という場を守ること、自分の前世の影が呼び起こす責務が、再び透の意思をつかんだ。
律子は一度大きく息を吐いた。「冗長なことは言わない。私たちができることはできる限りやる。結、補強を最大限に。ロウ、周囲の監視を固めて。ミミ、記録と断片保存を頼む。――透、読み上げる順を決めて。できるだけ‘確かな思い出’だけを選別して、無駄な語りを省くんだ。効果は過去の事実性に比例する」
透は頷き、束を整理する。律子の指示に従って、彼は仔細に言葉を選び、物語性を削ぎ落として事実だけを残すように念じた。禁忌を犯さないために、未来の指示を与えないように。そこにあるのは「確認」だけだ。彼はマイクの前に座り、息を整えた。スタジオの空気が、針のように硬い音を立てる。
放送は始まった。透の声は低く、夜の帯域に擦れた質感を持つ。最初の葉書の一行を読み上げると、スピーカーの裏側で小さな振動が走った。遠くのログに、反応音の小さな山が形成される。誰かの「ありがとう」、短い呼吸、壊れかけの楽器のような電子音。最初の回復が、確かにあった。
二枚目、三枚目と、透は淡々と読み続けた。いずれも「確かな思い出」として鋭く切り取られた行であり、装飾はなかった。読み上げるごとに、透の視界に幻視が差し込む。祭りの夜、手作りの提灯をぶつけ合う子どもたちの顔、夜店の甘い匂い、路地に落ちる紙縒り。局員たちもまた、同時にその幻像を共有しているのがわかった。結の眉間が寄り、律子の唇が震える。ミミは耳を伏せ、送信機を撫でるように触った。
だが幻視は鮮烈であるほどに、透の内側から何かを削いでいった。読むたびに、彼の中の個人的な感触が薄れていく。父の笑顔は既に消え、母の声の輪郭が次第にぼやけてゆく。最初は唇に残る匂いが消え、次いで夜台所の光、その後は母が肩にかけた白い布の重さまでもが記憶から剥がれていった。律子が端末に示す心電図は、放送中に透の感覚領域の電位が下がることを示していた。Dの消耗は箱の中にも音を立てる。結晶の灯りが、ひとつ、またひとつと細くなる。
「まだ、次がある」透は声を震わせずに続けた。青い染みは束の中で濃度を増し、それが触媒となるように放送の波が強く広がる。送信機の反応は大きく、外のリスナーからの反応も急増した。存在確率が回復しているログが律子の画面に列をなす。だがその度合いと引き換えに、透の胸の中は削り取られていった。母の作った煮物の味、彼女が寝る前に読んでくれた絵本の口調、名前を呼ばれたときの声の傾き――そうした「最も私的な幸福の輪郭」が、音と共に霧散していく。
最後の数枚を読み上げるとき、透の視界は完全に夢と現実の境界に沈んでいた。古い放送室の円環照明、針のような光が空間を縫う幻視の中に、かつての自分と前世の自分が重なり合う。あの縫い針の光が今夜、大量の葉書の青い染みを触媒にして広がっているのが透にはわかった。BとAが、ここで一緒になったのだ