夢鉱島のセラピスト 第3話「第二章」
朝暮れがまだ雲海の縁をくすめている頃、作業区画は金属の呼吸と人の所作でゆっくり目を醒ました。配管の低い唸りが機械鯨の肋骨のように規則正しく脈打ち、夢潜航用の水槽は冷たい蒼白の光を溜めている。僕は作業服の袖をまくり、指先に残った結晶粉を擦った。昨夜取り出した結晶のサンプルは、まだ記録カードのデータ領域に淡い光を宿している。形は壊れておらず、音は柔らかかった。
朝暮れがまだ雲海の縁をくすめている頃、作業区画は金属の呼吸と人の所作でゆっくり目を醒ました。配管の低い唸りが機械鯨の肋骨のように規則正しく脈打ち、夢潜航用の水槽は冷たい蒼白の光を溜めている。僕は作業服の袖をまくり、指先に残った結晶粉を擦った。昨夜取り出した結晶のサンプルは、まだ記録カードのデータ領域に淡い光を宿している。形は壊れておらず、音は柔らかかった。
「これは生活灯向けだ」ユノが結晶片を手に取り、目を細めて音を確認するように舌打ちした。「幸福成分が濃い。光り方も角がない。こういうのは家の灯りや医療の低出力に使う。悪くない」
ユノは夢炭を音階として聴く男だ。彼にとって、結晶は楽器の音のように聞こえるらしい。だがここで扱うものは単なる音や光ではない。人の生の断片、夜に残された欲望や後悔、最後に言えなかった言葉──それらが工場の秤にかけられ、用途に振り分けられていく世界だ。僕の前世(透だった頃)の臨床室と、ここで濾過される空気は似て非なるものだった。どちらも「聞く」仕事だが、目的が根本から違う。
ユノの言葉で、僕は今の作業の枠組みを改めて理解する。ノア環礁──雲海の上に浮かぶ七十二の島々は、それぞれが夢炭を資源として依存している。夢炭という総称は、睡眠殻に残った感情が結晶化した鉱物を指す。採掘の過程で初めに取れるのが粗い粒状の夢材で、それを選別・圧縮して用途別に精製したものが夢炭になる。精製の段階や配合で呼び名も変わる。幸福や安堵を主成分にしたものは生活灯向け、罪悪感や後悔が強いものは浮力制御に向く。恐怖が濃縮されたものは高出力で、軍事・緊急用の「恐怖炭」として重宝される。記録に耐える透明性を持たせた結晶は「記録結晶」と呼ばれ、証言や保存用途に回される──だが、上層の需要は常に恐怖炭を求めたがる。
「ユノ、今日のターゲットは?」と僕は訊いた。彼は端末を操作して、作業番号と対象者のデータを表示する。画面には五十七歳、工場勤務、故人。名前を見た瞬間、胸に小さな違和感が走った。どこか見覚えのある姓だったが、それはすぐに過去のざわめきにのみ込まれた。
「ハンターさんだ。近所の工場で長年働いてたらしい。供給は少ないが透明で安定する。生活灯向けとしては上質だ」ユノは説明を切り上げるように言った。「上からは恐怖炭を優先しろって指示が来てるけど、こういう繊細な夢材は掘り方次第で壊れる。無理に圧縮すると残夢が増える。残夢は人格の欠片だけが剥がれて怪物として立ち上がる」
「残夢が増えると、下層に回される廃棄夢が増えるってことだね?」僕は苦々しく言った。ヴァルカはノア環礁の下層群にある島のひとつだ。上層と下層の差は資源だけでなく、安全と負担の分配でもある。上層は夢炭の恩恵で浮力炉を安定させ、生活の余白を持つ。下層は高価な恐怖炭を優先する圧力にさらされ、採掘の過度な強行や廃棄夢の受け皿にされがちだ。リュネも、かつては同じように下層で働いていた島の一つだったが、過掘りが原因で沈んだ。僕らは、そうした現実を肌で感じながら働いている。
潜航の手順はいつもと変わらない。ヘッドセットの冷たい金属が耳の後ろで光り、クランプが額と顎を優しく支える。ユノが最後の周波数チェックをし、ランプが緑に揃った。水槽の表面は澄み、裂け目のように開いた夢の入口がそこにある。僕は深く息を吸い、潜り込むように首を沈めた。
夢の時間は密度が違う。外の時計は意味を失い、忘れられた朝の匂いがじわりと立ちのぼる。場面は一軒家の台所。古い木のテーブル、湯気の立つやかん。老人は同じ手順を繰り返すように包みを開け、ポケットを探り、小さな笛を取り出す。だが彼の動きには届かない寂しさがまとわりついていた。傾聴潜航が触れるのは、語られた言葉だけではない。言葉にならなかった望み、届かなかった期待、音にならなかった欲求が小さな音になり、僕の内側で輪郭を得る。
「もう一度、あれをやりたかった」――胸の震えが声になる瞬間、僕は核心を捉えた。彼の願いは謝罪の言葉ではなかった。孫の前で笛を吹くこと。見られている感覚、存在の確かさを取り戻すための一瞬だ。僕は否定せずにただ寄り添った。夢主の最後の願いを改変せず、そのまま結晶に結びつけることが僕の役割だ。圧縮したり美しい結末に変えたりするのではなく、形を崩さずに安定させて取り出す。そのために、僕は自分の耳でその音を繋ぎとめる。
結晶がふわりと現れると、それは透明で澄んだ光を宿していた。記録結晶としての素質がある。だが代償は既に確定していた。潜航を終え、現実に戻る間に僕は胸の中の何かが抜け落ちるのを感じた。大きな穴ではない。だが確かな空白がそこにある。透として生きた時代の一つの記憶、初めて訊いた患者の名がふっと蒸発した。名前は存在の符号だ。誰かを呼ぶための鍵であり、かつて僕が誰かの悲しみを受け止めた夜の証しでもあった。
「おい、大丈夫か?」ユノの声が現実に引き戻す。彼の目が真剣に僕を見ている。「潜航のたびに何かを失うって話は聞いてたけど、結構くるな。前世で何やってたんだっけ、お前?」
問いに僕は一瞬言葉を失った。前世の断片は残っているが、輪郭が少しずつ溶けていくのを感じる。だがここで困惑に飲まれてはいけない。僕は手の中の結晶をユノに差し出した。「取れた。少量だが安定してる。彼が欲しかったのは笛の音だ。謝るためじゃない。誰かにその音を聴いてほしかった。それを壊さずに渡す。たとえ代償がこれでも、僕はそれを選ぶ」
ユノは結晶を耳に近づけるような仕草をしてから、小さく笑った。「お前の聴き方は雑さがない。真ん中を恐れないんだな。上は効率を求めるから嫌うだろうけど、下層では必要だ。廃棄夢が増えると、処理が回らなくなる。下の連中がもっと傷つく」
その言葉を受けて、工場の上役ハーヴが作業床に降りてきた。彼の顔は油と苛立ちで曇っている。腕の端末をちらりと見てから、僕の前に立ち塞がった。
「収量が足りん。上からの命令で今日は恐怖系を優先する。グロウ監督官の直命だ。こっちの都合で掘り方を変えるな、新人」彼の声は釘のように冷たい。
グロウ──上層評議会直轄の監督官の名が空気を一瞬固くした。彼はただの管理者ではない。恐怖炭を増産して島の防衛力を高める、という上層の方針を押し進める立場にある。だがその代償は、どこかの誰かの夢を過度に圧縮し、残夢を量産することだ。僕は反論したかったが、ここで声を荒げればハーヴの立場が有利に働くだけだと知っていた。
ユノは無言でハーヴを見返し、低く言った。「こっちだって下の処理能力を考えてやってる。恐怖だけ集めて上に送れば、今度は廃棄場が耐えられない。連鎖なんだよ」
ハーヴは端末を叩き、それで会話は切られた。彼は去る時、冷たい言葉を一つ残した。「結果を出せ。数字で示せ。それで上は満足する」
夜に向かう空は鋼のように低く、工場の吐息が一層深くなる。ユノは手際よく装置を片付けながら、ぽつりと言った。「廃棄夢の搬送先が増えた。下層の処理場がキャパオーバーらしい。新しいルートを作るって噂だ。リュネの件を忘れるな、レム。あの島も、始まりはそんな『効率』だった」
僕はポケットの記録カードを確かめ、手の中