夢鉱島のセラピスト 第2話「第一章」
朝まだき。雲海の縁が薄い銀糸のように島の周縁を撫でているころ、作業区画は低い機械音と人の所作でゆっくりと目を醒ました。配管が吐く蒸気は煤けた油の匂いを含み、鉄骨の上をドローンが飛び交うたびに金属の歌が小さく響く。夢潜航用の水槽は冷たい蒼色を湛え、表面は鏡のように静かだった。
朝まだき。雲海の縁が薄い銀糸のように島の周縁を撫でているころ、作業区画は低い機械音と人の所作でゆっくりと目を醒ました。配管が吐く蒸気は煤けた油の匂いを含み、鉄骨の上をドローンが飛び交うたびに金属の歌が小さく響く。夢潜航用の水槽は冷たい蒼色を湛え、表面は鏡のように静かだった。
僕は袖をまくり、指先に残った結晶粉を拭った。昨夜のサンプルの微かな残光が指先に残り、その温度感が胸の奥の既視感をほどく。名前はもう十分に身体に馴染んでいる。レム・アーカとして動く自分の輪郭。透の記憶は薄く、しかし耳先にはまだ彼が使った沈黙と待つ技術が残っている。ここでのやり方はそれと違うところもあるが、重なる部分も多い。聞くことを仕事にする――その中核だけは同じだった。
「今日は最初の本潜だ。相手は近所の工場で長年働いてた五十七の男だってさ」ユノが端末からデータを擦るようにして言った。手には小さな結晶片を持ち、耳に当てては目を細める。彼は夢炭を音として読む男だ。結晶を掌に載せると、淡い光が揺れ、指先に微かな振動が伝わる。幸福は澄んだ高音、後悔は震える中域、恐怖はどろりと低く重い。ユノの言葉はいつも音楽的で、実務に独特の色を添える。
「量は少ないけど透明度は高い。生活灯向けに回せる。ただ、上が恐怖炭を優先しろっていうから、圧縮の強度は抑えた方がいい」彼は続けて手元の数値を示す。「掻き取りは先輩がやる。お前は潜航で夢を聴き、僕は音を調整、ミナは抽出角度を監督。三人でやれば壊さずにいける」
ミナは無言で端末の照明を眺め、機械部分の調整値を指でなぞった。黒髪を束ねた顔には余計な感情が乗らず、しかし指先の動きは正確だった。彼女は普段から言葉が少ない。けれど動作は確かで、操船士としての勘と経験が滲んでいた。彼女が軽く頷くだけで、班の空気は整う。
「こいつは繊細だ。掻き取りの時に躊躇すると層が崩れる。だが無理にこじ開けると残夢が出る。残夢は厄介で、人格の欠片が飛び散る」ユノの声に、僕は潜航のルールを改めて確認した。受け止める力があれば夢は安定する。だが強い感情を「受容」すると、代償として僕は私的記憶の一つを失う。弱いものやただの観察では何も消えない。そこは自分の中で厳然たる交換条件だった。
ミナがふと、やっと声を出した。「掘り方、変えるか。ノーマルの刃角だと落ちる。浅く入れて、音域に合わせて圧縮のテンポを落とす。ユノ、君のチューニングでどれだけスローにできる?」
ユノは結晶片を耳に押し当て、目を細めた。「最低限のノイズキャンセルを外して、低域の減衰を作る。そうすれば高透過の成分が壊れにくい。だが時間が伸びる。上の指示が煩いの承知でいいのか?」
ミナはほんの僅かに唇を歪めた。「残夢が増えれば、結局下層に回す負担が増える。俺らしいやり方で浮かせるのは無理でも、壊さないのが先だ」
その言葉に、何かひとつの線が引かれた気がした。僕は自分の能力のことを、改めてはっきりと言葉にするべきだと思った。二人に知られても構わない。透の約束を守る代わりに、ここでの責任を全うするしかない。
「聞くときに一つだけ――」僕は静かに切り出した。「強い感情を受け入れると、僕は私的記憶を一つ失う。小さなことから大きなことまでどれが消えるかはランダムだ。弱い感情なら影響はない。でも、核心に触れると消える。だから、掘り方は僕が決めた相方の合図で進めてくれ。僕が取り込みすぎる前に二人が調整できるように」
ユノは一瞬驚いたように顔を上げ、結晶片を見つめたまま笑った。「面白い。代償付きの傾聴だな。音楽に例えるなら、君はその場のリバーブを全部吸い取る機材だ。だが、それがあるならこっちも手加減しやすい。指示は合わせるよ」
ミナは無言で僕を見た。彼女の眼差しは、いつもの冷たさよりもやわらかかった。「……わかった。君が舵を取るんだな、レム。あんまり私情を持ち込むな。こいつらの夢は――たぶん、ただ見せたいだけだ。謝るためでも、弁明でもない。見せたかったんだ」
僕はその言葉の端を掴む。見せるために夢を持ち続ける――それは透の診察室で患者たちが抱えていたものと近い。見てほしいという欲求は、言葉よりも純粋で、扱い方次第で壊れやすい。
機械の準備を整え、僕はヘッドセットを装着した。冷たい金属が耳の後ろを締め、頭部のクランプが額を軽く圧迫する。ユノとミナの影が視界の周縁に歪み、そこから夢層へと滑り落ちていく。潜航は沈黙の繁殖地だ。僕は無音の海底に耳を沈め、感情の波を待った。
夢の中は、老工の朝が繰り返されていた。しわの寄った手が竹笛を探し、何度も同じ廊下を往復する。空間は切り取られたまま輪廻を奏で、渇望は濃密に匂い立つ。言葉はない。だが僕の能力は、言葉にならない声を音に変える。最初に届いたのは、ぬるりとした塞がれた声だった。「まだ帰れない」——帰るべき場所に戻れない切実さが、身体に近い熱として押し寄せる。
受け止めると、感情の核が僕の胸に針を刺す。強い欲求が一点に凝縮され、そこを支点に夢の層がゆっくりと動いた。通常ならば機械の刃が入って、記憶片が断片化されるところだ。だが今回は三人の息が揃っていた。ユノが低域を緩め、ミナが掻き取り角度を浅く保つ。僕はそれを合図にして、受容の深さを調整した。受け止める。否定しない。壊れないように並べる。
そのとき、像ができた。老工が孫の前で笛を吹く姿。謝罪の言葉でも、告白の熱でもない。ただ見せたかった光景。謝る必要も請う必要もなく、ただ見せることのために彼の夢は持ちこたえていた。僕はその映像を壊さぬよう、ゆっくりと手許に置くように聴いた。波は穏やかになり、青白い粒子がゆっくりと結晶化していく。残夢が立ち上がる気配は消え、結晶は透明で安定した。
装置が吐き出した結果をユノが受け取り、掌に載った結晶片を耳に当てる。彼は目を細め、やがて軽く笑った。「いい質だ。壊れなかった。お前のやり方は、雑さがない。真ん中を恐れない」
ミナは肩を軽くすくめ、ぽつりと言った。「別に褒めてるわけじゃない。次もやるなら、もっと要領よく動け。無駄に時間を延ばすと上が五月蠅くなる」
その言葉は照れ隠しだったのだろう。僕は胸が少し熱くなったのを感じた。仕事が終わって戻る通路で、ユノが小さな結晶片を一つ机から取って僕に差し出した。色は薄く、音は澄んでいる。
「持ってろ。聞き方の参考になる。高音は生活系、低音は浮力系。それを覚えておけば、どのくらい深く受けるかの判断になる」彼は手渡しながら、軽く目で合図した。「こっちのやり方を真似してみ。というか、君のやり方も悪くない。組み合わせの勝ちだ」
ミナが無言で通り過ぎようとした瞬間、僕はふと立ち止まり、彼女に尋ねた。「ミナさんは、どうしてここに残ったんですか。諦めたわけじゃない、と思うけど」
ミナは一瞬だけ顔を向け、表情は硬い。だが声はいつものよりも低かった。「守るためだ。守る――というと大袈裟だが、俺たちの作る浮力炉は誰かが浮くためのものだ。上層が豊かになる代わりに、下層は削られる。ここで働くってのはそういうことに目を向けるってことだ。自分が守れないものがあれば、せめて手元のやり方だけは正しくしておきたい。そ