夢鉱島のセラピスト 第1話「序章」
深夜の相談室の光景が、僕の胸にひどく鮮やかに残っている。とはいえ、そこにいたのは今の僕ではない。昔の僕、透が最後に座っていた場所だ。前世の名をそう呼ぶことにしているのは、この胸の中で二つの時間が並列にあることを確かめるためだ。僕――今の僕、レムは、その記憶を引き継いでいるが、透と僕は同じものではない。透の思考や習慣は骨のように残っている。だが肉付けは変わり、境界が溶けた部分がある。
深夜の相談室の光景が、僕の胸にひどく鮮やかに残っている。とはいえ、そこにいたのは今の僕ではない。昔の僕、透が最後に座っていた場所だ。前世の名をそう呼ぶことにしているのは、この胸の中で二つの時間が並列にあることを確かめるためだ。僕――今の僕、レムは、その記憶を引き継いでいるが、透と僕は同じものではない。透の思考や習慣は骨のように残っている。だが肉付けは変わり、境界が溶けた部分がある。
透が担当していたのは、言葉を繰り返す患者たちだった。蛍光灯の白が無造作に顔をさらし、メモ用紙のインクが夜の湿度ににじむ。透は相手の語る輪の中で沈黙を守ることを仕事にしていた。適切な間合い、ちょうど良い重みの相槌。言葉よりも余白を読む技術。彼はそれを誇りにもしていた――だが誇りはいつのまにか罪の重さに置き換わっていったらしい。
「——自分が悪いんじゃないかって、思うんです。朝が来るたびに、あの時のことを思い出してしまって」
同じ言葉が何度もこぼれる。透は声が震えないように気をつけて相槌を打った。診療報酬の枠、次の予約、上司からの簡潔な指示。時間は常に外から押してくる。痛みは分節化され、箱に詰められては処方箋に変わる。透は箱の外側にあるもの、切れっぱしの後悔や未練に触れ続けるうちに、自分が誰かの完全な救いになれないことを深く知った。
透が最後にしたことは、ひとつの願いだった。携帯の留守電に残された母の声を、いつもより念入りに聞きながら、彼は夜空に向かって小さくつぶやいた。「せめて、誰かの苦しみを正しく聞ける人間でありたい」と。言葉は自分に向けられ、どこか頼りなげな灯火を胸にともした。それが彼の終着点だった。
だが、終わり方は淡白だった。透は駅へと向かう途中、ポケットの携帯が震えるのを感じ、歩道橋の手すりに寄りかかった。留守電の母の声は眠っているような温度で、夕食の話や下世話な冗談が混ざっていた。そこで透は、その細部を心の中に拾い上げて記録しようとした。だが、指先が触れる前に輪郭がにじみ始めた。記憶の端が薄れていくのを感じたのだ。それは潜航の代償ではない。確かに僕はそう理解している。母の声が遠くなるのは、能力の前払いではなく、魂の移行が生んだ傷である――別の何かを得るために払った代償の一つだ。後に僕はそれを「移行の痕」と呼んだ。傾聴潜航の代償とは別のカテゴリの喪失だ。
足元が遠のき、世界の輪郭が溶けるような感覚。胸の奥で、夜の余韻とは違う低い音が鳴り始めた。語りではない、感情の末端が振動するような、透明な低音。透はそれに吸い寄せられるように手を当て、携帯を落としかけた。目の前が暗転する瞬間、耳の奥で一語だけ届いた。
「——沈みたくない」
それは乏しい言葉だった。だが乏しいほどに切羽詰まっていて、どこか空虚を満たそうとする力があった。声の主は人間か、残滓か、あるいはもっと大きなものの一欠片かもしれない。薄青い光が目の前に舞い、粒子のように空間を満たした。触れれば舌先が痺れるような冷たさと、塩の匂いを含んだ金属の匂い。透の意識は、その呼び声に引かれて深く沈んでいった。
そして目を開けると、空が広がっていた。雲海の上に浮かぶ島々。太いパイプが雲海へと牙を向けるように伸び、青白い結晶が機械の口へと搬入されている。遠くで機械の鯨のような低い音が呼吸する。風は冷たく、金属の羽を持つドローンが断続的な振動を帯びて飛んでいた。匂いは透の知っている海と違って、油と古い哀しみが混ざっていた。
その時、身体が若く、声が軽いことに気づいた。顔の輪郭はまだ固く、皮膚は張りがある。支給服の布地が肩に擦れる。指先の感覚は鋭く、身体の中に透が残していったものと新しい身体の感覚が交差した。僕は今、レム・アーカとしてここにいた。
「レム、支給服はそっち。新人か?」
近くの作業員の声が僕を現実に引き戻した。名刺大の記録カードが渡され、そこにはそう記されていた。レム・アーカ。十七歳。夢採掘見習い。透の記憶の温度と、レムの身体の冷たさが混ざり合って、僕は自分の中の二人を確認する。透は聞くことを職業としていた。今の僕も、聞くことを求められている。ただし舞台は違う。ここでは聞いたものを掘り出し、機械に渡すことで島々が浮く仕組みだった。
ポケットに手を入れると、透の時に抱えていた留守電の端緒が薄れているのを思い出した。語尾の癖、息遣い――本来ならば細部を採集していたはずの記憶が、指の間からするりと抜け落ちる。移行の痕だと僕は知っている。これから僕が感情を受け止めるたびに何かを失うだろう。しかしそれは「母の声が薄れる」ことではない。母はすでに僕の中で、かつての温度とは違う影になっている。潜航の代償はこれから別の形で数を数えられていく。
埠頭に立つ人々の表情は、慣れと諦めで固まっていた。下層の匂いが濃く、設備は古い。作業の列に押し出されるようにして僕は並ぶと、隣に黒髪を束ねた少女が座っていた。彼女の目は冷たい海を見通すようで、周囲の喧騒に一切身を預けていない。人々は彼女を「ミナ」と呼んだ。腕の線は操船士のそれだ。僕の胸に、透が身につけていた聞き方がふっと戻ってくる。聞くことが自然な反射だという感覚だ。
列の向こうには、工具箱を抱えた青年が結晶片を耳に当てている。ユノという名だそうだ。彼は結晶を音に変える技術を持っているらしく、手のひらに乗った小片が淡い光を放ちながら微かに震えていた。透の最後の夜に聞いた低音が、ここでも遠くで震えている。島々の底で何かが脈動しているような音。僕はそれを胸の奥で受け止めた。
ここが僕の仕事場であり、僕の新しい舞台なのだと理解したとき、透の最後の願いが僕の中で反響した。彼は「聞ける人間でありたい」と言った。僕はその言葉を、これからのやり方でやり直すつもりだ。ただし、聞いたものを機械の鱗の下に押し込むことはしないだろう。聞いて、記録して、それがどこへ行くのかを見る。失われるものがあるなら、その数を確かめながら、できるだけ多くを返す方法を探すつもりだ。
名刺を握りしめ、僕は深く息を吸った。遠くの空を機器が渡る時、低い振動が胸骨に伝わる。夜に聞いた「沈みたくない」という声は、まだ耳の奥で鳴っている。誰が、何が、その声を上げたのかはわからない。ただ一つ確かなのは、僕はもう一度耳を澄ますために生まれ変わったということだ。そして今度は、聞いた声がどこへ消えるのか、誰の手に渡るのかを見届けるつもりだ。透が望んだ「正しく聞く」ことを、レムとしてやってみせるために。
──それが、ここで始まることだと、僕は思った。