異世界転生薬湯師の軍師 第11話「第10章」
湯場の縁で、ナツは掌に載せた小さな藁束を指先で揉んでいた。藁は薬草の乾いた根をまとめたもので、ほんの一握りでも湯全体に香りを回すには十分だ。朝の薄靄が湯面に溶け込み、鉄製の松明がまだ赤く燃えている。湯気の向こうに、リオが腕組みをして立っていた。彼は鉄帯の下に見えるほつれた軍服を整えながら、きつい声で言う。
湯場の縁で、ナツは掌に載せた小さな藁束を指先で揉んでいた。藁は薬草の乾いた根をまとめたもので、ほんの一握りでも湯全体に香りを回すには十分だ。朝の薄靄が湯面に溶け込み、鉄製の松明がまだ赤く燃えている。湯気の向こうに、リオが腕組みをして立っていた。彼は鉄帯の下に見えるほつれた軍服を整えながら、きつい声で言う。
「今日は、もう一度役場に顔を出して来いってんだ。あんた達の湯が認められたって知らせが来たが、監視も厳しくなるらしい。軍の連中が嗅ぎ回す前に、運営の掟を固めておけ、と。」
ナツは藁束に鼻を寄せ、いつものように香りを確かめる真似をした。能力の発動は、薬草を湯に落とすこと。そこで吸い込む香りから、誰かが休むことを拒む――その理由を一つだけ読み取る。読めるのは一つ。誤読はない。万能ではないから、万能のつもりでやると代償が来る。ナツはそれを痛いほど知っている。胸の奥が、昨夜の悪夢でざらついている。
「認められたってのは嬉しいが……」とミレが、湯の番台越しに短く吐き捨てる。ミレは医女だった。腕は確かで、言葉は少ないが、人を休ませる術だけは誰にも負けないと言い切れる。彼女は自分の湯桶を拭きながら続ける。「でも監視が来るってのは、あの将校どもがよけいな口を出すってことよ。湯が政治の道具にされるのは勘弁だ。」
「だから掟だ。」リオが言った。「誰が湯に入るかは共同体が決める。ナツの香りは参考にする。強制はしない。ナツが無理に沈めたって判断になれば、俺達全員で責任を取る。あんたは一人で背負わなくていい。」
ナツは微かに笑ったが、その笑いはすぐに消える。笑うのに体力がいる。彼はその日、何をしたいかはもう分かっていた。湯場を守るための小さな自治を形にすること。湯を単なる療養の場としてだけでなく、共同体が自らの疲れを可視化して選べる場にしたい。だが妨げは明確だ。軍の目、そして自分の体が発する悲鳴。悪夢は最近、頻度を増していた。
彼らは声を潜めて話し合い、湯場の利用規則を紙に書き出した。湯に入るには当人の明確な同意が必要であること、ナツの薬草を使って理由を読むのは当人の要請がある場合のみ、ナツ自身が一日に使う回数に上限を設けること。リオは「湯番」を輪番制にし、ミレは同意の儀式を整えた。カズは帳簿をつけると申し出て、アヤは年長の住民の代表として合意の場を取り仕切ると約束した。彼らは皆、自分の判断で動いた。ナツはその顔ぶれを見て、肩の少し重みが楽になるのを感じた。
「それでいい。だけど――」ナツが言葉を詰めた瞬間、湯場の入口に慌ただしい足音が響いた。門を押し開けて入ってきたのは、若い下士官だった。制服は整っているが、顔は硬い。彼は息を切らし、肩で息を吐くと、巻き紙を差し出した。そこに刻まれた文字は簡潔だった。連隊からの通知。湯場の一時的な活動停止命令、ならびに対象者の洗浄と休養の強制――部隊の指示に従わない者には懲罰あり、と。
場に一瞬、静寂が走る。紙を見ながら、ナツの指先が僅かに震えた。強制か。軍は長年、疲弊を秩序のために管理することを正当化してきた。彼らの望む秩序では、休むか否かは上から決めるものだ。ナツの能力は、そこに異議を唱える。共同体が自分で選ぶことを助けるためにある。だが今、命令は彼の顔の前にある。
「どうしても必要なら――」とリオが前に出た。彼の声にはいつもの厳しさが残っていたが、ナツにはその背後に焦りが見えた。「軍の前では、選択なんて言えない。連隊の命令だ。上からの指示だ。」
ミレがナツに鋭く視線を投げる。「ナツ。一緒に考えよう。強制はするな。強制すれば、湯は冷える。君も、同じ悪夢を見る。皆で背負うって言っただろう?」
だが下士官の顔は硬い。彼は任務を果たすだけだ。彼が伝えるのは上命であって、相談の余地はない。隊長命令だと、下士官は繰り返す。連隊は数十の兵を複数日に分けて検査している。今、休ませるべき兵がいる。兵は、拒むと言っている。軍の立場では、拒む理由は管理怠慢と見なされる。
ナツは藁束を握りしめた。能力の発動に要るのは薬草を湯に投入することと、当人の許可だ。だがこの場面は微妙だった。兵は言葉で拒否している。だが「休むことを拒む理由を聞かせてほしい」とナツが問えば、兵はどうするか。命令に応えるか、共同体の場で自分を明かすか。ナツは自分が決めることではないと知っていた。だが、人質のように兵の体力が限界を超えようとしているのもまた事実だ。
「やれ」と別の声が湯場の外から来た。声の主は連隊の中佐で、短剣を腰に下げ、目は冷たかった。彼は連隊の威厳を盾にして入ってきた。「この者をそのまま放置すれば部隊に影響する。治療は国家のためだ。君が治療師なら、命令に従え。」
ナツの胸を締めつけるのは、単なる命令への恐れではなかった。無理に沈めれば湯は冷える。既にそれを経験したことがあった。その瞬間、湯気は薄れ、香りは消え、冷たさが肌を刺す。悪夢が来る。さっきまで計画していた自治など、全部吹き飛ぶ。だが目の前の行き場のない兵の顔を見ると、ナツの手は無意識に動き、薬草を泥のように固めた藁束を湯に落とした。
「許可はあるのか?」とナツは自分に問いかける格好で兵に向き直った。兵は目を逸らし、唇を噛んだ。肩の震えが止まらない。息は浅く、汗が首筋を伝う。リオが後ろで歯を食いしばるのが分かった。軍の指揮官は不快そうに眉を寄せるが、命令だ、と繰り返す。
ナツは、自分の能力のルールを破ろうとは考えなかった。だがその瞬間、彼は「このまま送り出して死ぬほうがいいのか」と思い、それを止めたいという衝動が勝った。藁束を湯に入れ、その香りが辺りに立ち込める瞬間、ナツは深く香りを吸い込み、ひとつだけ理由が浮かんだ。
「家に火があるからだ」
言葉ではなく映像が流れた。焦げた家屋の梁、黒煙の中で泣く幼子、女の叫び。ナツはそれを即座に兵の言葉として――解釈し――口にした。「家が燃えている。家族を待たせておけないんだ。戻らねばならない。戦場を離れられない理由がそれだ。」
と同時に、何かが冷えた。湯気が薄れて、指先に刺すような寒さが来る。熱い湯が、瞬間的に氷を溶かした後のように、心臓の下あたりで冷たさに変わった。ミレが咳き込み、リオの目が一瞬見開かれる。下士官が巻き紙を握りしめたまま腰を抜かす。中佐は唇を噛んだ。
そして、ナツの内側に――針が深く刺さるような痛みとともに、夢が落ちてきた。彼は台の縁にもたれかかることもできず、その場で膝を折る。目の前の景色が歪み、湯場の木の柱が伸び、湯気が黒い縦糸になって彼を縛る。焦げた薬草の匂いが鼻を突き、見知った誰かの叫び声が反復される。そこは昔のような、戻れない場所だった。自分が子どもの頃に見た燃える屋根の夢、弟の泣き声、そしていつまでも止まない行軍の音――すべてが同時に押し寄せ、息をすることができなくなる。
「ナツ!」ミレの声が耳を割って入る。暖かい掌が彼の肩を叩いた。誰かが水を撒く感触。だが夢は振りほどけない。ナツは深い冷たさの中で、ある名を叫ぶ。だがその名は耳に戻らない。彼の体は痙攣し、突如として全身が冷たくなる。湯場の湯は確かに冷え、湯気の輪郭が砕けて落ちた。誰かが慌てて湯