虫使い 第8話「第7章」
ミオは、朝露で湿った巣箱の蓋を軽く押し上げることから一日を始めた。指先に残る蜜蝋の匂いが、まだ彼女がここにいる理由をつないでいる。目の前には、自分で刷毛のように撫で、餌を差し出し、夜ごと小さな低い声で語りかけてきた群れがいる。羽音はまだ眠っていて、雨上がりの空気の中に溶けている。
ミオは、朝露で湿った巣箱の蓋を軽く押し上げることから一日を始めた。指先に残る蜜蝋の匂いが、まだ彼女がここにいる理由をつないでいる。目の前には、自分で刷毛のように撫で、餌を差し出し、夜ごと小さな低い声で語りかけてきた群れがいる。羽音はまだ眠っていて、雨上がりの空気の中に溶けている。
「今日は外へ出してみるかい?」サラが隣で囁いた。サラは村の若手だが、蜂仕事の腕は確かで、ミオとは糸のように細い信頼でつながっている。肩越しに見えるのはトウマ。彼は村の木場番で、外の村へ荷や消息を運ぶ役目を任されている。朝の光が彼の肩を照らし、顔にはまだ眠さが残っていた。
ミオは蜂箱の中へゆっくり手を入れ、幾つかの働き蜂を取り出した。彼女の掌に止まると、羽音が小さく震え、まるで言葉を紡ぐ前の咳払いのように聞こえた。白蜂――羽の欠けたあの白蜂も、群の中に混じっていた。欠けた羽は完璧には治らなかったが、その欠片が彼女の胸をいつも刺した。触れ合いは、命令ではなく約束だ。ミオはそれを確かめるように、ひとつひとつの腹を撫で、蜜をすこしだけ指先から与えた。
「行き先は風見村だね。あの村の井戸守り、リノに一度確かめてもらいたい。私たちが掬った水と虫の反応を、向こうでも確かめてほしいんだ」
トウマが言った。彼の声には戸惑いと希望が混じっていた。風見村は道一つを隔てた隣村で、互いに物をやり取りしてきた相手だ。だが都との間にある力関係は、こちらが叫んでも届かないとミオは知っている。だからこそ、声を届ける手段を作る必要があった。文字や人の行き来だけでなく、森に住む者たちの脈を通じて。
「直接行って伝えたほうが早い。説明すれば分かるはずだ」トウマは踏み出したが、その顔が少し固まる。彼は力任せに押し通す性格でもある。村の誰かが矢面に立つことを心配し、ミオはすぐに首を振った。
「それだと、都に目をつけられる。私たちがここで声をあげる理由が、こちらから壊れてしまうかもしれない。虫たちがいる限りは、彼らを使って静かに知らせたいの」ミオの言葉は穏やかだが、揺るぎない。口に出した「使って」は誤解を招くが、彼女は命令を下すような言い方を避ける。自分の能力は、世話した虫たちにだけ羽音の模様を伝えさせられる。だが命令だけで群れを動かすことはできない。無理をすれば散る。女王蜂を失えば、三日間、音を聞けなくなる。そういう条件は彼女の骨に刻まれていた。
サラが小さく唇を噛んだ。「どうやって、向こうの人に意味を伝えるの? 羽音は怖いとか危ないとかは伝えられるって聞いてるけど、風見村の人がそれを『井戸が変だ』って理解するかどうか…」
「以前から、いくつかの単語をつないで使ってきたじゃない。危険・水・汚れ・来い。全部を言えないから、短い合図に分けて、向こうで誰かが受け取って解釈する仕組みを作る。それに、向こうにも蜂の世話をする人がいる。彼らが私たちの羽音のリズムを見てくれれば、受け渡しができるはず」とミオは答えた。彼女の中には試作の設計図があった。羽音は言葉の一連の点滅だ。短く低く震わせる音は「井戸」、高く鋭く揺らす音は「危険」。人間には聞き取りにくいが、他の蜂と習慣づけられれば、受け渡しは可能だ。
トウマは膝を折って地面に印を描いた。「それなら、俺が向こうまで運ぶ。直接言葉で頼むのではなく、巣箱ごと一つ持っていって、それを向こうの巣箱の外で開ける。互いの群れが顔を合わせることを利用するんだ」
ミオはその目を見た。トウマには単純だが有効な発想がある。重要なのは、巣箱ごと運ぶときに女王に負担をかけないこと、餌の量や匂いの変化で女王が刺激され、群れが暴走しないことを考慮することだった。だが、巣箱の移動は女王にとって大きなストレスだ。彼女は首を振った。
「女王を移動させるわけにはいかない。移動させる瞬間に群れが乱れたら、女王の位置が特定される。私たちがいま守らなくてはいけないのは、女王と群れの安定。だから、働き蜂の方を使おう。短い距離なら交換は可能だ。彼らが外で会うのを許して、そのときだけ羽音で合図を伝える。命令じゃなく、合意を形にするリズムで」
サラが息を吐いた。「合意、ね……どうやってそれを獲得するの?」
ミオは布切れに蜜を少し垂らし、指先でそれをぜいたくに伸ばした。働き蜂は蜜の匂いに強く反応する。彼女は静かにブラシを取り、巣箱の縁をゆっくり撫で回した。蜂の世界では、触れと餌が約束だ。命令の代わりに、繰り返しと報酬で「行き先」と「戻る時間」を教える。彼女は手を止めて、白蜂の方を見た。あの白い一羽は、欠けた羽でいつも少し離れた位置に座る。傷のある翅は彼女が夜に添い寝するような存在だった。
「まずは餌慣らしをしよう。風見村の花の匂いを混ぜた蜜を用意する。向こうの群れと接触するとき、その匂いが標識になる。蜂は匂いで仲間を見分ける。匂いを介して‘自分たちの仲間’と‘合図を持つ仲間’を区別させる。それで、羽音の模様を渡せるはずだ」
サラは顔を上げる。迷いと希望が混ざった瞳だ。トウマはにやりと笑った。「そうか、なるほど。匂いのパスポートだな」
準備は思ったより早く進んだ。ミオ、サラ、カリナ婆さん、そしてトウマ。カリナは村の長老であり、かつては別村を渡り歩いた経験がある。彼女はミオの話を聞くと、個人的な知恵を一つ口にした。
「匂いだけじゃなく、交換の儀をつくるのもいい。向こうの長老に先に伝えて、巣箱の外で小さな‘会合’を設けてもらう。人と人の合意がないと、蜂の合意もなかなか生まれんよ」
ミオはうなずき、トウマに向かって小さな紙切れを渡した。そこには風見村の長老への簡単な頼みごとが書いてある。トウマはそれを受け取り、すぐに出発の支度をした。彼の背中はいつもより真っ直ぐに見えた。
「私たちはここで見守る。トウマ、向こうの合意が取れたら、合図がある。無理はしないで。蜂が乱れたらすぐに戻ってきて」ミオは囁くように言った。彼女の手は巣箱の縁に置かれ、蜂の暖かさを感じていた。合図がなければ実験は失敗だ。だが、合図があるということは、向こうの誰かが耳を傾けるということでもあった。
数時間後、予想以上に静かな第一接触が始まった。トウマが風見村の長老を説得してくれ、向こうの小さな隊がこちらへ近づき、互いの巣箱の前で待ち合わせることになった。人は距離を保ち、巣箱の外でただ座る。蜂は人の会話を理解しない。だが人の存在が、蜂同士の接触を許すための「安全の合図」となるのだ。
ミオは手旗の代わりに、白い布を小さく振って合図を送った。布の振り方は以前村で使っていたもので、蜂たちの警戒を高めないように抑えた動きだ。巣箱の縁から働き蜂が飛び立ち、風を斬るように羽音を溶かしていく。彼女は息を詰める。胸の奥が静かに高鳴った。
最初の数匹が接触点を越えようとしたとき、問題が起きた。トウマの傍らにいた一人の若者が、大きな声で驚きの叫びを上げたのだ。声に驚いた蜂たちが一瞬散りそうになり、羽音が不協和音を放った。サラの顔が青ざめ、ミオはとっさに手を伸ばして巣箱の縁を覆った。命令めいた声を上げれば群れは散る。ミオはただ静かに、指先で蜜を差し出した。蜂たちは香りに導かれて落ち着きを取り戻