干谷の水脈守り

干谷の水脈守り 第6話「第五章」

古びた揚水塔は、昼の熱を溜めこんだ石の塊のようにそこに在った。外套の縁に残る砂が歩を止めるたびに舞い上がり、風は塔の口を通って冷たい空気を吐き出す。ナナがランタンを掲げると、鉄と石と古い油の匂いが混じった。塔内部は予想より広く、円筒状の空間を取り巻くように腐食した鎖や歯車、曲がった軸が散らばっていた。天井からは細い湯気が上がり、淡い光に踊る。誰かが長くここを使っていない証拠だ。

古びた揚水塔は、昼の熱を溜めこんだ石の塊のようにそこに在った。外套の縁に残る砂が歩を止めるたびに舞い上がり、風は塔の口を通って冷たい空気を吐き出す。ナナがランタンを掲げると、鉄と石と古い油の匂いが混じった。塔内部は予想より広く、円筒状の空間を取り巻くように腐食した鎖や歯車、曲がった軸が散らばっていた。天井からは細い湯気が上がり、淡い光に踊る。誰かが長くここを使っていない証拠だ。

「ここが旧揚水塔か……」セドは声を抑えて言った。言葉には倦怠にも似た冷たさが含まれている。彼の指先はいつも通り無表情に、だが確かに何かを探している目になっていた。彼は王都の測量兵だった。燃え残った地図と改竄された記録を思えば、熱を帯びたこの石造りの機構は答えを隠している場所だと直感している。

モルは鼻を高く上げて、床の割れ目に頭を突っ込むようにして匂いを追った。小さな肩が震え、細い足が鉄の床を器用に踏む。水を嫌うとは思えないほどに、乾いた空気の中でも彼の体は慎重に湿り気の通り道を嗅ぎ分けている。ナナが前へ行き、傾いた歯車の淵に手をかけると、軋む音が闇に深々と落ちた。

「ここ、昔は動いてたんだろうな」ナナはつぶやき、歯車の中心を指で探る。そこに残る焼けた油の膜、金属が接触した痕、細かい削り粉。修理の手が長期間入っていないことは一目で分かるが、どこか最近触れられた形跡もある。ナナの目が一瞬、床の隅に置かれた小さな革袋に吸い寄せられた。

セドは塔の壁面に沿って歩き、目を細めて刻まれた小さな記号の列を追った。壁の石に残された測量記号は、かつての流量の参照点と方角を示している。彼はぽんと指で一つの記号を叩いた。「ここ。これ、封印の印じゃない。王都のやり方だ。けれど――」指先がもう一つの薄い刻印に触れると、声が止まった。「ここに消し痕がある。焼け跡。意図的に消した形跡だ」

リオはゆっくりと壁に近づいた。父の残した保守印が常に重く胸にあるのが分かる。彼は掌を石につけた。冷たさが指先を刺すようにして伝わり、皮膚を通じて地中の音が彼の内側へ入ってくる。水脈聴きの感覚だ。石と接した瞬間、青白い線が視界の奥に滑り込むわけではない。彼には音が立体になって耳へ落ちてくる。だが今日の石は、いつもと違う種類の喋り方をする。

細い流線が、鼻先に届く水の匂いとともに立体的に図化されていく。塔の床下を幾本もの流れが走り、円筒の基部を取り巻いている。ある一本はゆっくりと勢いを失っている。そこから先では、流れが唐突に“切れて”細かな滝音が途切れていた。リオはその切断点を手探りで追う。手を滑らせるように、彼は次の石へ、次の石へと触れていった。触れるたびに流線は繋がり、彼の頭に現在の地形の断面が組み上げられていく。

だが触れる範囲を広げるほど、彼の体が冷たく、軽くなるのを感じた。喉ではなく、内側の水分が抜けるような鈍い渇きが徐々に広がっていく。彼はその感覚を胸の中に押し込もうとしたが、意識の端に白い膜が広がり始めた。視界の隅が薄く霞み、音の輪郭も遠のく。まだ理由は分からない。だがリオは知っている。自分の能力は、広く読むほど代償が増す。ここで無理をすれば、取り返しがつかない。

「リオ、無理するな!」ナナの声が近くで鋭く響いた。だが彼は、その声を遠くの波のようにしか受け取れなかった。流線が一つ、彼に向かって跳ね返る。その末端には、塔の底から上へ伸びる太い縦穴の帯が見えた。縦穴の途中で流れは消えていた。そこに覆いがあって、誰かが物理的に遮断している――それが直感として迫ってくる。だが意図か理由かは、音は語らない。

リオはその縦穴を指で辿るようにして、より上部の石に手を伸ばした。彼の体は一気に冷たくなり、指先から胸までが乾いていく。視界の白さが増し、壁に施された細かな刻印が砂のように崩れて見えた。音は明瞭だが、そこへ肉体が追いつかなくなる。彼は歯を噛みしめ、もう一度だけと自分を奮い立たせた。

そのとき、床の向こうから低い声が響いた。塔の外からだ。遠い金属音、走る足音、誰かが伝令をたてる短い呼吸。リオはその瞬間、頭の中でピンと静止したイメージを捉えた。縦穴の上部──王都側へと続く区画に、封印の痕跡が存在する。流れはそこから上流へ送られるはずの水を受け取れなくなっている。だが理由はまだ、音だけでは分からない。だが今、重要なのはこの情報を持ち帰ることだ。彼は手を石に残し、最後の力で周囲の流線を心に刻む。

白い膜が目の前に広がり、声と世界が遠くなる。次に来たのは、床から伝わる一瞬の落下感だった。彼は足場を失い、腕の中に冷たい石の感触と、仲間の曲がりくねった影だけを感じていた。誰かが彼を抱きかかえ、背中の骨が軋む。空気が、彼の顔にふっと当たる。視界の白さの中で、唯一本だけ色濃く残るものがあった。ナナの手だ。鋤のような太い指、油で黒ずんだ爪。セドの袖口。モルの小さな背中に差した夕焼けの光。その手の色だけが、彼の白い世界に鮮やかに残った。

「軽率だった。やめろ、リオ!」ナナの声は怒りと動揺が混じっていた。セドは慌てずに彼の外套を掴み、床へ優しく横たえた。モルは鼻先でリオの袖を突き、くるりと背を向けて小声で鳴いた。呼吸が浅かった。彼は自分の胸の中で水が消えた感覚をはっきりと捉え、唇をわずかに開けて塩の包みを思い出した。父の印の下に縫いこまれていた小さな布袋。塩。そして、この程度で済むならば、仲間に迷惑をかけても価値のある情報を得られた、という軽い誇り。

セドは腰の小瓶を取り出した。透明な液体がひとしずく、彼の意識の中に落ちた。だが規則はルールだ。水を飲むだけではだめだ。ナナは手早く布を解き、塩の粒を口にねじ込む。塩が舌に触れた瞬間、リオの内部でひくつく何かが戻る。血管が、筋繊維が──乾きを補うように少しだけ締まり、白い世界がじりじりと溶けていった。視界はぼんやりとした灰色になり、仲間の顔が輪郭を結ぶ。

「この塔の向こう、上流へ続く石の縦穴がある。そこで流れが切れている」リオはかすれた声で言った。言葉を吐き出すだけで彼の口の中が痛んだ。ナナは片腕で彼の首を支え、怒りが納まらないように顔をしかめた。

「お前、なんで一人でそこまで触ろうとしたんだ。能力ってのは情報を拾うための道具だろうが、命を削ってまで——」ナナの言葉は続かず、最後はため息になった。だが彼女の手は確かだった。リオはその手に、自分の全てを預けていた。

セドはその間に、塔の片隅に積まれた金属箱の一つを開けた。中には文書が幾枚か、油紙に包まれて残っている。紙の縁が黒く焦げ、ところどころに王都の官用印が押されている。だが幾つかの行には新たに朱が引かれ、内容が書き換えられた形跡が見て取れる。セドは指で火で変色したページをめくり、低い声で読む。

「ここに、年号とともに“自然枯渇”と明記されている。だがその前の記録には、上流水門の操作が記録されている。あの碑文と符号が一致するなら……」彼は言葉を噛みしめて続けた。「誰かが、流量を人為的に止め、それをごまかすために枯渇をでっち上げた痕だ」

ナナはリオの肩を軽く叩き、その手を離して箱の中身に目を落とした。「それを王都がやったのか?」と彼女は問い詰める。