宵鳴りのレゾナ 第9話「第八章 台風圏内」
台風が街の輪郭をひとつずつ溶かしていく。信号機は濡れた緑を点すたび、風にひしゃげて見え、アスファルトは夜のような色に沈んだ。シャッターが降りる連続音が町内に遅れて響き、ビルの谷間では救急車のサイレンが高く遠のくたびに風音に呑まれて途切れた。
台風が街の輪郭をひとつずつ溶かしていく。信号機は濡れた緑を点すたび、風にひしゃげて見え、アスファルトは夜のような色に沈んだ。シャッターが降りる連続音が町内に遅れて響き、ビルの谷間では救急車のサイレンが高く遠のくたびに風音に呑まれて途切れた。
その切れ目に、別の途切れが混じっている。無響駅の周辺、地図には印が残っていない場所。そこだけ、雨だまりに輪が立たない。足音の跳ね返りが一瞬消え、言葉が紙吹雪のように散って、拾い集める前に濡れて融けていく。
商店街の端で、女の人が子どもの頬を両手で挟んでいた。
「……ごめん。今、なんて呼んでたっけ」
子どもは肩をすくめ、泣くことも笑うこともできないまま、空を見上げた。灰色の風の塊が低く行ったり来たりする。母親のスマホの連絡先には、子どもの名前がただの空白で表示されていた。
遠くない場所で、弁当屋の前に立っていた配達員が、自転車の鍵を手にしたまま立ち尽くす。目的地はアプリの地図から消え、届先のマンション名だけが舌の上でほどけて形にならない。彼は焦りで呼吸を早くし、次の瞬間、別の用事を思い出したように走り去った。
無響駅の地下へひきこまれたような空白は、すでに地上に滲んでいる。看板の隅に貼られたポスターから文字だけが落ちて、濡れた石畳の上で黒い糊跡になっていた。
鳴瀬透真は、その変化をカメラ越しに見ていた。ファインダーには雨粒が斜めの線で写るだけで、音は記録されない。録音レベルのメーターは底に貼りつき、揺れない。けれど透真には聴こえる。鼓膜の内側で、小さな鐘がかすかにかちりとかちりと鳴り、喉の奥で誰かの息を探すような感覚がする。
澪。名を心の中で言う。胸の内側であたたかな圧が返る。そこに宿っているのが、自分の響器《灰鐘アステリズム》の核――妹の「声の記憶」だと知ってしまったあとでも、透真はそれを確かめずにはいられない。
ベンチの端に、傘を畳んだ真白が立っていた。彼女は避難所からのボランティア配布の腕章を濡らしながら、レンズ拭きで透真のカメラを拭い、ポケットから小さなメモ帳を取り出す。
「ここ、名前を書いてもらってる。避難所で、不安になってる人たちに。書くことでつながるから」
字が滲んでも、手で押さえれば消えない。真白はそう言って、横断歩道の向こうで立ち止まっている年配の男性に近づいていった。
透真はメモ帳の表紙を見た。安っぽいものだ。けれど、その紙に線を引くたび、濡れた空気のなかに白い筋が残る気がする。名を呼べば、そこに人がいることが確かになる。
背後の空が低く鳴った。低気圧の芯が近づいている。スマホに受信した夜警局の連絡は、太字でシンプルだった。
——第七班、二十二時三十分、無響駅に突入。
本文には、鳴瀬透真の名はない。
画面を見つめる透真の指先に、薄い震えが走った。まだ濁っているのか、怒りというのは、こういうときに湧くのかもしれない。榊が渡した報告書の、黒塗りのところ。自分が知らないまま代償を払い続けていた事実。もう、問いただす時間はない。
濡れた地面に跪くようにして、透真はバッグから黒いケースを取り出した。中には、彼の音叉痕に触れると目に見えない糸を出す、ギターの弦にも似た、だが跳ね返りのない光のスプールが眠っている。ケースの蓋を開くと、瞬間、雨音が薄くなった。灰色の糸が一本、夜気のなかに解ける。
「……行くの?」
真白が戻ってきて、濡れた髪を耳にかけた。目は心配の色だが、止めることはしない。
「行く。俺が行かないと、たぶん……」
言葉が詰まる。たぶん、誰かが代わりに払う。代償はいつも、どこかで誰かに押しつけられる。そういう仕組みを、もう見過ごしたくはなかった。
「澪ちゃんの声、もう聞こえにくいんでしょ」
真白の言い方は、踏み込みすぎず、しかし曖昧でもなかった。透真はうなずく。
「もっと薄くなるかもしれない。俺のせいで。……でも、忘れたいわけじゃない。忘れないで、前に進む。それが、今は少しだけわかる」
真白は頷き、メモ帳をぎゅっと握った。
「じゃあ、私はこっちでつなぐ。避難所で、みんなの名前と、好きなものと、帰り道を訊く。録る。忘れそうになっても、何度でも言ってもらう」
「危ない」
「危ないのは、もう始まってる。さっきおばさん、自分の孫の名前を言えなかった。言ったら、顔思い出してた。……言葉って、強い」
彼女の肩に載った雨が、透明な粒を弾いた。彼女はそれを振り払わず、空を見た。
「それから。これ、榊さんに渡して」
真白は、小さなSSDを差し出した。テープで貼られたラベルには、手書きの字で「街の声・六月〜九月」とある。
「この夏の映像、ずっと撮ってたの。インタビューとかじゃなくて、街のこと。横断歩道の音とか、夕方の公園とか、駅のエスカレーターの音。——無響駅の手前、あの通りの消音になるところも、別の日に撮れた」
透真は息を呑んだ。真白は気づいていなかったけれど、無意識に危うい場所にレンズを向けていたのだ。
「それ、危なかったよ」
「今さら。役に立つならいい。榊さんたち、音で戦ってるんでしょう? 本物の街の音は、錨になるかもしれない」
錨。言われて透真は《灰鐘アステリズム》の糸を見た。糸は風を受けてかすかに震え、景色のなかに細い光跡を残していた。
「行って。戻ってきて」
真白は笑い、しかしその指先は白くなるほどメモ帳を握っている。透真はうなずき、彼女の手に代わりに別のものを載せた。細い蛍光の糸。彼の響器の先端で切り出した、個人の音を結びつけるための細工。
「これ、腕に巻いといて。……気休めかもしれないけど、結び目を見れば、名前を思い出せる」
「うん」
真白はそれを受け取り、濡れた腕にしっかりと巻きつけた。その結び目は、彼女が書いた自分の名の字の形に、ほんのわずか似ていた。
夜警局の第七班は、都心の小さな合同庁舎の一角で集結していた。窓を打つ雨音の向こうに、警報の読み上げが繰り返される。榊は折り畳みの地図の上に、マーカーで簡単なルートを描いていた。路線図はすでに空白が増えすぎて、紙地図よりも赤ん坊の手のひらのようだ。
「——透真は外す。彼は個人的な事情で揺れている。無響に飲まれたとき、戻る基点を失いかねない」
そう言う榊の声は、いつもの半分の冗談も含まないものだった。八雲しずくは唇を噛んだ。頷くことができない顔のまま、背負ったケースの留め具を無意識に弾く。
「でも、あいつが聴けるもの、見えるものが、今回は——」
「代わりは俺がやる」
御影律が短く言って、テーブル端のスピーカーに手を伸ばす。《逆光レコード》の黒いプレートは、彼の手元のカード型端末と同期していた。
「巻き戻しは限定だ。無響のなかでは役に立たない局面も多い。けど、空間の継ぎ目は拾える。お前の太刀と合わせれば、穴は埋まる」
しずくは、律の言葉の端がすこし柔らかくなっているのに気づいた。文化祭以降、彼は変わった。変わろうとした。だからこそ、透真も——
扉がノックもなく開いた。びしょ濡れのフードを脱ぎながら、透真が入ってきた。誰もが同時に立ち上がれなかったのは、驚きのせいか、心のどこかで彼が来ると知っていたせ