宵鳴りのレゾナ 第8話「第七章 澪が残したもの」
紙の匂いは、古い雨のにおいに似ていた。湿気を吸ってふくらんだファイルの端に、透真の指先が触れる。第七班の小さな会議室。窓の外では、台風の外縁の雲が低く渦を巻き、窓の桟をときどき細かく揺らしていた。
紙の匂いは、古い雨のにおいに似ていた。湿気を吸ってふくらんだファイルの端に、透真の指先が触れる。第七班の小さな会議室。窓の外では、台風の外縁の雲が低く渦を巻き、窓の桟をときどき細かく揺らしていた。
榊がテーブル越しに差し出したのは、今となっては存在しないはずの記録だった。「非公開処分」と朱で押された事故報告書。表紙の右下には、黒塗りの帯が斜めに走っている。視線を落とすたびに、透真の喉に小さな音のない痛みが走る。
「開けてくれ。君が、君自身のことを知るために」
榊の声はいつもの調子で、少しだけ掠れていた。冗談を言う余白が、今日はないのだとわかった。
ページをめくる。日時、場所、気象。あの日と同じ、雨。交差点の描写は簡潔で、そこにいたはずの人間の感情はどこにも書かれていない。
——現場における残響濃度、通常値の四十一倍。感情トリガーは「喪失恐怖」および「保護衝動」に由来。周辺の音声記録に著しい欠損が観測されたため、静寂教団の関与を疑う。
簡素な言葉のはずなのに、行間がやけに生々しく見えた。透真はさらに目を走らせる。見覚えのある地名。車があの瞬間に切り裂いた水。濡れた歩道。こめかみの奥で、ざらついた光景が再生され始める。
——目撃証言より。幼い男子(N. T.)が少女(N. M.)の前に立ち、両手を広げて庇う動作を示す。直後、交差点全体に微細な光の線状構造が出現。音響的測定不可能領域(無音域)が増幅し、衝突エネルギーの一部が拡散。
光の線。弦。透真は、喉の奥が乾いていくのを感じながら、次の段落に指で印を付けてから読んだ。
——当該男子の右掌に「音叉痕」が発現。少女の「声の記憶」の一部が共鳴体に流入した可能性。緊急対応により現場の残響暴走は鎮圧。ただし、少女の声に関する物理的記録および周囲の証言に重篤な欠損が確認された。
指が止まる。紙のざらりとした手触りが、現実のひとつの線をこちらに引く。透真は、頭の中で浮かんでいた千切れ雲のような疑問が、ひとつの形に固まっていくのを見た。
澪の声だけが録れない。マイクをいくら近づけても、いつも空白だった。編集の波形に、そこだけ深い谷が開く。あれは「消えた」のではなく、ここに、あるいは、自分の中に遷されたのだと。
紙束の終わり近く、細かく塗りつぶされた黒の向こうに、線のような文字の尾が見える。消された名前。教団のコードネーム。夜警局の内部協力者。榊は、腕を組み、視線を斜めに落として立っている。
「——なぜ、これを」
「渡すのが遅れたと、責められて当然だ。すまない、鳴瀬」
榊は深く頭を下げた。冗談の代わりも、言い訳も挟まない。その背中は、台風前の空のように、どこまでも重い。
「当時、我々は追われていた。現場は教団の『実験』だった。残響の同期を、人を使って試す。抑えに入った局員の中に、敵の手の者がいた。名前はまだ出せない。——君を保護する過程で、真実が歪んだ。いや、歪ませた。君が調律師として目を開けたのが、妹の残した声を核にしてしまったからだと、言えなかった」
透真は、ごく短く笑ったが、それは音にならなかった。笑い方を間違えたのだと自分でわかる。紙の上の活字が、やたらと黒く見える。
「——俺は、あのとき。助けようとして。間違えた」
「君は間違えていない。守ろうとした。響器が生まれる仕組みは、誰にも選べない。残響に飲まれずに君が生き延びたのは、君が、そして——」
「澪が、俺を庇ったから」
口に出して、ようやく輪郭がはっきりした。胸のどこかで、鈍い音がした。
榊はうなずき、視線を正面から合わせた。「君の《灰鐘アステリズム》は、澪さんの『声の記憶』を核にしている。使いすぎれば、核は摩耗する。君の中の澪の声が、さらに遠のく。だからこそ訓練が必要だったし、君の選択を君に任せるべきだった。だが——」
「隠した」
透真の声は、冷たく平らだった。榊はまぶたを伏せる。
「守りたいと思えば思うほど、遠ざけてしまう。俺の悪い癖だ。君を、この仕事からも、過去からも切り離そうとした。それが、結果として君から選ぶ権利を奪った。許してくれとは言えない。ただ、いま渡すべきだと思った」
会議室のドアの脇で、しずくと律が、言葉を探しているように立ち尽くしていた。しずくの拳が、無意識に握られて開かれる。律は、頬の傷に指を当て、わずかに顔をしかめている。
「鳴瀬——」
しずくが一歩踏み出した。透真はファイルを閉じ、深く息を吸う。灯りの音が耳に刺さるほど鮮やかに聞こえた。
「——すみません。今日は、帰ります」
短い沈黙が渦を巻く。榊が目を閉じ、うなずく。
「わかった。搬送は——」
「ひとりで大丈夫です」
扉を押すと、冷たい空気が頬に触れた。廊下に出た瞬間、しずくが追いかける。振り向いた彼の視界に、彼女の瞳の青が揺れた。
「待って。私——」
「しずく」
名前を呼んだだけで、胸の奥が少し痛んだ。彼女は、言葉を飲み、肩を落とした。律が、並んで立つ彼女の肩に手を置く。
「放してやれ。行く場所がある」
彼の声は冷静に聞こえたが、指先には力がこもっていた。
廊下の突き当たりの非常扉から階段へ。足音が一段ごとに、別の時間へ落ちていくようだ。外に出ると、風が強くなっている。ビルの間を走る砂利のような音。街全体が何かを待っている気配。
帰り道、信号待ちの横断歩道で、風に煽られた傘がひっくり返る。通り過ぎる車のタイヤが雨の薄膜を切り裂き、銀色の舌のような跳ね水を道の端に投げる。そのすべての上に、あの日の光景が重なってくる。光の弦。切断された運動。——そのあとに残った、長い無音。
アパートのドアを開ける。靴を脱ぎ、明かりをつける。机の上には、録音機材とハードディスクが整列している。壁に貼られた都市の地図。赤いピンで打ったいくつかの地点。そこに結ばれた白い糸は、音の流れを示すはずのものだが、今はただ不格好な蜘蛛の巣のように見える。
ソファに座ると、背もたれが体重を受け止めた。その柔らかさでやっと、自分がとても疲れていることを知る。掌を見下ろす。そこに刻まれた細い痕が、いつもより白く見えた。指をわずかに曲げると、空気がひやりと鳴るような感覚が走る。呼べば、彼女の声を、また削ってしまうのだ。
ノックの音。二度。間を置いて、もう一度。
立ち上がると、ドアの向こうに真白が立っていた。傘を持っていない。髪が少し濡れて、頬にくっついている。心配の色を隠せない目で、こちらを見上げた。
「……ごめんね。勝手に来ちゃった」
「いや。どうした」
「なんか——今日、空の色が変で。……それと、文化祭の編集のデータ、気になって。あなたの顔が浮かんだの」
わずかに笑って見せる。無理につくった笑顔ではなく、どうにかしてここにいる理由を言葉にしようとする、彼女らしい表情だった。
「入って」
靴を脱いで入ってきた真白は、部屋の中を見回して、それから彼の顔へ戻した。「大丈夫?」
「大丈夫じゃないけど、大丈夫だって言うしかない類のやつ」
「そういうの、最近上手になってきたよね」
痛いところを平然と突く