宵鳴りのレゾナ 第10話「第九章 無響駅」
階段を降りるたび、街から切り離されていく感覚が強くなった。雨の音も風のうなりも、コンクリートの天井に吸われ、やがて「あるはずの音」が輪郭だけを残して消えていく。足元の水溜まりは揺れているのに、波紋は無言で広がり、靴底のきしみは透真の耳に届かなかった。
階段を降りるたび、街から切り離されていく感覚が強くなった。雨の音も風のうなりも、コンクリートの天井に吸われ、やがて「あるはずの音」が輪郭だけを残して消えていく。足元の水溜まりは揺れているのに、波紋は無言で広がり、靴底のきしみは透真の耳に届かなかった。
薄暗い通路の先、封鎖された鉄柵の向こうに、古い駅名の看板跡がぽっかりと黒い空白になっている。外されたプレートの四角だけが、昨日剥がしたばかりのように白い。そこに、本来刻まれているはずの文字が、透真の目には光の埃のような粒になって漂って見えた。
榊が柵の鍵を簡易工具で外しながら、振り返って顎を上げる。彼の顔は相変わらず飄々として見えたが、眼差しはいつもより深く縫われていた。
「ここから先は、無響域だ。自分の呼吸が自分のものか、怪しくなる。ロープで繋がっていく。離れたら終わりだと思え」
しずくが頷き、腰にからげた安全ロープの結び目を確かめる。律は無言で小型のレコード盤のような黒いディスクを取り出し、胸元の音叉痕に指を当てた。透真も、手袋の上から自分の左手首——細い稲妻の痣が走るそこに、そっと触れる。
灰色のホームは時間から切り出されたスライスみたいに静止していた。照明は点いているのに蛍光灯の唸りがない。遠く、電光掲示板が光の筋を流し、『次の列車は わすれもの行き』と、さっき見たままの冷たい冗談を繰り返す。ホームの端には、等間隔に人影が並んでいた。みなスーツや学生服で、傘や鞄を手に、寸分違わず同じ姿勢で電車を待っている。だが、顔がなかった。肌色ののっぺりとした楕円が首の上に乗っているだけで、耳も口も目も削ぎ落とされている。
しずくが一歩、前に出る。雨燕ノ太刀は抜かれていないのに、彼女の周りの空気が小さく震えて、見えない雨粒が舞った。律は視線を走らせ、足場と逃げ道を、戦闘の前提としてまず確認する癖が出ている。
そのとき、風が起きた。無響のはずの空間で、風だけが視覚的に見えた。線路の奥、真っ暗なトンネルの口から黒い塊が押し出される。金属の軋みも轟音もなく、列車が滑るようにホームに進入してきた。緑色の帯の入った古い車両。窓ガラスに映っているはずの蛍光灯の光が、なぜか波紋のように遅れてずれる。
乗客がいた。窓の向こうに、満員の立ち客たちが、顔のないまま揺られている。その胸元から、糸くずみたいな光が外へほつれていた。青や赤や、かすれた黄色。透真は、その光が音だと直感した。言葉にならず、飲み込まれ、残響になってしまった感情の残り火。列車はそれらを乗せて、何かの終点に向かっている。
ホームに並ぶ無顔たちが一斉に一歩前に出た。糸の先、彼らの胸の空洞に、列車の光が呼応する。乗客の後悔と、待つ者の忘却が、互いの形を補い合うみたいに。
「近づくな。視線を合わせるな。榊、結界を」
律の低い声。榊は頷き、指で弧を描いた。鐘楼——見えない鐘が鳴らされるように、空間のある範囲が透明に揺れ、ホームの空気が一段落ちた。結界の内側は、わずかに音の輪郭が戻ってくる。ロープが、手の中で頼りなくも確かな重みを主張した。
列車のドアが開いた。チャイムの音はなく、ただ静止した空気が入れ替わる。無顔たちの数人が、するりと中に吸い込まれていく。代わりに、ひとりだけ、背中から降りてきた小さな影が、ホームに足をついた。
透真の喉が、勝手に鳴った。
髪が肩で跳ねる。白いワンピースの裾が揺れる。振り返った横顔——鼻筋も口も、以前のまま。だが、そこには声がない。いや、顔はある。透真の目には、はっきりと彼女の顔が見えた。澪。
胸の奥に埋めていた名前が、はっきりと音になりかけて、内側で砕けた。
手の甲に、冷たいものが落ちる。涙ではない。空気中の静寂が、しずく形に凝って、皮膚を冷やした。
「透真?」
背中から呼ぶ声に、今度は現実の音があった。しずくが警戒を緩めないまま、彼の顔色を伺う。律も、わずかに眉をひそめたが、視線は列車と無顔から外さない。
「見えるのか?」律が問う。
「ああ……」
見える。彼女がそこにいる。澪が。ホームの中央に取り残されたまま、迷ったように首を傾げている。
電光掲示板が、かしゃり、と光の粒を立てて書き換わる。『各停 おかえり』。列車は、まだ止まっている。
「動くな。下がれ」
榊の指示が飛ぶのと、無顔の列の合間から、別の影が滑り出してくるのは同時だった。若い男だ。濡れた前髪をかき上げて笑う癖。白い耳。しずくが、息を呑んだ。
「蒼真……」
彼女の兄。彼は制服姿のまま高校生に見えた。しずくと同い年の時間をまとって、ここにいる。彼の口もとが何かを言っている。だが、音がない。彼女にしか、その形が読めない。
律も同時に、列車の窓の向こうから、ひとりの女性を見つけた。軽く巻いた髪、笑うと垂れ目になる目尻。千景。彼女は窓越しに律のほうを見て、ようやく見つけたと言わんばかりに安堵の笑みを浮かべる。そして指で、律の胸元——黒いレコード盤に触れる仕草をする。
無顔たちの列から、ひとりの女性がふらふらと飛び出し、電車に近づく。彼女の手には、小さな子どもの靴がひとつ、握られていた。透真は吸い寄せられるように歩み出かけ、慌てて足を止めた。ロープがぴんと張り、榊が支える。
「ここは、見せて、奪う」
榊が呟く。「自分で手を伸ばしたものほど、深く絡め取る」
その言葉が終わりきる前に、世界が、すり替わった。
結界の透明な輪郭が、ひび割れて、白い花弁が視界に舞う。足場がずれる。だが、っという小さな音もない。ロープがするりと手から抜けた感触だけがあった。背中の重みが、消えた。
透真は、ひとりになっていた。ホームのタイルは、夏の夕方のアスファルトに変わっていた。蝉時雨は鳴っていないのに、空には夕焼けの筋が走り、川沿いの道が目の前に延びている。ベンチがあって、そこに、澪が座っている。初めてのサンダルを履いて、足をぶらぶらさせて。
視界の端で、微弱な揺れが続いている。耳の横から、軋むようなノイズ。トランシーバーだ。腰につけた小さな無線機が、微かな命綱のように、ここに現実があることを知らせている。
『——もしもし、聞こえる? こちら地上の真白。第七班、応答して。透真、しずく、律さん。聞こえるなら名前を言って』
針の先ほどの声。水の中から誰かが叫んでいるみたいだ。透真は、目の前の澪を見た。澪も彼を見た。彼女の唇が、かすかに動く。
『おかえり』
声はない。だが、意味は分かった。透真の胸が締め上げられる。あの日と同じ言葉。あの日、血の匂いと救急車のサイレン(今は思い出せない音)の中で、彼女が口の形だけで言った言葉。
「……澪」
透真は、ゆっくり近づいていった。彼女はベンチから飛び降り、両手を広げる。小さな手のひら。触れれば、全てが終わる。分かっている。それでも、その一歩を止めることは、残酷の技術だ。
『透真? 聞こえる? 今のあなたはここにいる。無響駅のホーム。台風の夜。私、避難所で、あなたたちの名前を読んでる。透真、あなたの動画、いま画面の前にいる人たちが見てる。あの川沿いのベンチも、映ってる。あなたが