宵鳴りのレゾナ 第7話「第六章 記憶を切るひと」
濡れたコンクリートの匂いは、地上の雨と混ざると一層甘くなる。点滅する非常灯が地下連絡通路を断続的に照らし、壁に貼られた古い避難経路図のビニールが浮き上がっていた。
濡れたコンクリートの匂いは、地上の雨と混ざると一層甘くなる。点滅する非常灯が地下連絡通路を断続的に照らし、壁に貼られた古い避難経路図のビニールが浮き上がっていた。
その中央、青いラインで描かれた路線図にだけ、ぽっかりと穴が空いている。駅名の記載スペース。そこだけ、紙そのものが薄く剥がれ、指の腹でなぞるとざらりとした繊維が立った。
榊はポケットから白い手袋を引き出し、指先でその空白を押さえた。「生きてる紙なんて、初めて見たな」
御影 律は少し離れた場所で、誰もいない通路の音を聴く。聴くといっても耳ではない。肩甲骨の裏に、薄い溝のような疼きが走る。《逆光レコード》はまだ仕舞ったままだが、音の軌跡への敏感さは消せない。
「地上での標識と位置も一致してるのに、名前がない。地図も、駅名票も、運行ログも、そこだけ空白。電子化されたデータにも、丁寧に『何か』の形を残して消してある。手口が綺麗すぎる」
榊は鼻で笑う。「綺麗? 不気味の間違いだろ。戻ってきた調査員に聞いたか。入口のシャッターの前まで行って、次の瞬間にはラーメン屋の湯気の前に立ってたって。何をしに行ったかも思い出せない」
通路の向こう、仮設のベースにした保守室で、二人の調査員が紙コップのコーヒーを握りしめている。青白い顔。榊が連れてきた民間協力の記録映像屋が、彼らの胸元にピンマイクを付けようとしたが、その手をゆっくりと振って拒んだ。
「入ろうとすると、目的が消される。『無響駅』は文字通り、記憶ごと声を奪う場所になりかけてる」
榊が言うのを、律は黙って聞いていた。無響駅。彼の舌にその言葉は重い。口に出す前から、音の端がちぎれていく感じがする。
「とりあえず今日は、物理的にこじ開けるのはやめよう。張り巡らされてるのは、扉じゃなくて『忘れる結界』だ。うちの連中が入り込めば、記憶を断ち切って帰ってくる。記憶を切るのは、相手の土俵だ」
榊の眼差しが、律の横顔に一瞬だけ留まる。律は視線を逸らす。わかっている。自分が何を核に《逆光レコード》を回しているかも、その代償がどれほど切実かも。
弟子のような年の少年——鳴瀬 透真——がこの数日で手に入れてしまった輝きが、眩しくもあり、癇に障る。簡単だ。高らかに音を鳴らし、ヒーローぶっていればいい、と頭のどこかで嗤う声がある。そうやって舌打ちしておけば、心は楽だ。誰かを遠ざける口実になるから。
だが、その嗤い声は自分のものではない。
律は意識的に息を吐き、榊に言った。「しばらくは僕らの側で、音のほうから解いていく。名を奪うなら、名を呼ぶ響きを探す。ここにあるはずの『駅の名前』を、音として取り戻す」
榊は顎を引いた。「頼んだよ。無理はするな。するなら、俺の前でしろ」
毛布のような湿気が、保守室を出た律の肩に絡みつく。地下の階段を上がるにつれて、地上の雑多な音が戻ってくる。風のうなり、工事の打音、人の声。光の粒が、耳裏でこすれ合っているような感覚。
律はそのままオフィスに戻らず、古い訓練ホールに足を向けた。そこへ行けば、いずれは彼らの顔を見なければならない。それでも、足が勝手に動く。
扉を押し開けると、鳴瀬 透真が一人、床に座っていた。体育館のような広い空間。天井の梁からぶら下がる赤いランプが、ふわりと揺れる。
透真は両手を広げ、空中に張られた透明な弦を、見えない楽器のように撫でていた。指が触れるたびに、弦は淡く光り、空間のある一点へと収束する。耳で聴こえる音はない。しかし、律にもわかる。響器《灰鐘アステリズム》が、街の断片的な音を可視化し、束ねているのだ。
「……御影さん」
立ち上がった透真は、少しだけ困ったように笑った。「来ると思ってました」
言葉の端に、警戒と期待が同居している。律はそれが苦手だ。誰かの期待は、裏切れば簡単に負債に変わる。負債は記憶に居座る。消えない。
「訓練は怠らないタイプか。見直した」
「見直す前に、もうちょっと優しくしてくださいよ」
その軽口に、喉の内側が痺れる。真似のできない柔らかさだ、と律は思う。けれど彼は口に出さない。
「模擬戦だ。やるか」
透真の目がわずかに揺れ、すぐにきりりと細くなる。しずくがいないと決めないと思っていたが、今日は違うらしい。
「やります」
律は手のひらに意識を落とし込む。指先に、冷たい板の感触が現れる。《逆光レコード》。黒い盤面が光を吸い、空間に記録された数秒の軌跡が薄緑色の帯となって立ち上がる。
床が一瞬、わずかにきしんだ。透真の《灰鐘》がたわむ。光と光が、互いの存在を確かめ合うように、触れ合っては離れる。
「合図は?」
透真の問いに、律は答えず、靴の先で白線を踏んだ。その瞬間、何かが流れ出す。盤面の針が触れ、生まれたての音を巻き戻し、空気の運動を反転させる。
透真の姿がかすみ、次の瞬間、別の場所にいた。見間違いではない。律がほんの二秒前の空間を再生したことで、透真は「過去の位置」に引き戻されたのだ。彼は反射的に左手を振り、弦が盾のように展開する。光の膜に、透明な波紋が広がった。
律は一歩で間合いを詰める。盤面を揺らし、床に残る足裏の擦れる音を掬い上げる。それを翻すように、体を右へ流す。
透真は低い体勢から弦を撥ね上げた。弦は宙で交差し、律の動きを読み取るように先回りする。見えない壁に、背中が当たった感触。律は瞬時に針を戻し、今の二秒をほどき直す。壁に当たる前の自分が、そこに立っている。
視界の端で、赤いランプが揺れる。同じように揺れ、同じ順番で光る。反復の気持ちよさが、骨に染みている。繰り返せば失敗は薄くなる。薄くなって、いつか消える。過去にやり直しはきかないが、過去数秒なら、何度でも巻き戻せる。
だから千景の笑い声を、あの日の最後の言葉を、擦り切れるまで回してしまった――。もう彼女の声そのものは、記憶の盤面からほとんど剥がれ落ちている。残っているのは音ではなく、声がそこにあったと知っている胸の痛みだけだ。
律の視界に、白い照明が流れる。透真の弦が、今度は縦に走った。天井から床まで。光のカーテン。動きの逃げ道を断つ。律は針を滑らせ、反復で別の道筋を選ぶ。直前で透真が細く吐いた息。その乱れ。そこに隙がある。
しかし、次の瞬間、律の動きはわずかに遅れた。耳裏に、別の何かが紛れ込んだのだ。自分のものではない。擦り切れた記憶の盤の向こうから、音ではなく、言葉だけが押し返してくる。
前へ。
——進め。
誰かが、そう言ったと知っている。声はもう聞こえない。けれど律はその言葉の重さと温度を、骨で知っている。
刹那、迷いが生まれた。針がかすかに跳ねる。反復の滑らかさが、ひとひら、剥がれる。
透真の弦がそこへ打ち込まれた。衝撃。空間がきしむ。音の帯が千切れ、《逆光レコード》に敷かれていた軌跡が乱れた。
床に膝をつく。光がぶれ、赤いランプが幾つにも増殖する。透真の影が差し込んだ。
「……御影さん」
透真の呼吸は荒いが、目は据わっていた。「反復の中に、誰かの声が混じってた。さっきまでの、あなたの反応の重なり方……そこに、