宵鳴りのレゾナ 第6話「第五章 白い花弁」
文化祭の片付けが終わった朝、教室はまだ拍手の余熱で温かかった。黒板の隅に描かれた落書きはそのままに、机の上に置き忘れられた紙コップから砂糖の甘い匂いがかすかに立っている。誰かが廊下で昨日の映像の話をして、笑い声が重なった。 透真は席に座り、イヤホンを耳に差し込まず、ただ窓の外の曇り空を見ていた。撮れているはずの音たちの、間。昨夜、束ねて返した拍手は、もう彼の中ではただの波形でも、救いの証明でもなかった。指先の甲に残る軽い痺れが、まだそこにあるだけだ。
文化祭の片付けが終わった朝、教室はまだ拍手の余熱で温かかった。黒板の隅に描かれた落書きはそのままに、机の上に置き忘れられた紙コップから砂糖の甘い匂いがかすかに立っている。誰かが廊下で昨日の映像の話をして、笑い声が重なった。
透真は席に座り、イヤホンを耳に差し込まず、ただ窓の外の曇り空を見ていた。撮れているはずの音たちの、間。昨夜、束ねて返した拍手は、もう彼の中ではただの波形でも、救いの証明でもなかった。指先の甲に残る軽い痺れが、まだそこにあるだけだ。
「鳴瀬」
と、背中をつつかれる。振り返ると真白がいた。髪をハーフアップにして、頬の端に白いテープが少し残っている。昨日、映写機の台を引っ張って擦りむいたのを、透真が貼ったのだ。
「ほんと、昨日ありがと。あんなに人、来ると思わなかった」
「真白の編集がよかっただけ」
「透真が撮ってくれたからでしょ」
二人の声に、近くの席の子が「お疲れ」と手を振る。あの場にいた生徒たちの顔を思い出す。暗い体育館、光の粒。それぞれの胸の奥にあった重さが拍手になって解けていくのを、透真は確かに見た。聞いた。けれど、どこかに置き去りにしたものの輪郭が、曇天の厚さに溶けたようにぼやけてもいた。
HRが始まり、担任が文化祭の反省点を読み上げる。配布されたプリントが紙の擦れる音を立てた。その紙の音も、きちんとした言葉に変換できる気が今はしない。ただ流れていく。
「最後に連絡。今日から新しい転入生が一人、加わります」
担任の声に、空気が少しだけ色づいた。ざわめき。席替えでもないのに、誰もが背筋を正した。教室のドアが開く。
白。最初に思ったのはそれだった。磨かれた床に落ちる日差しが、彼女の周囲だけ一段やわらかい。
「凪、です」
小さく名乗った声は、よく通るのに、音としての厚みがない。細いその身体は制服のブレザーに少し泳いでいて、膝上のスカートの裾に手を添える仕草は幼さを感じさせた。前髪の隙間から覗く目は、はっきりとした黒で、けれど、黒の底で揺れない。
一歩、二歩。教卓の前を通り、クラス全体の視線が移動する。うるさかった空調の唸りが、彼女が通る瞬間だけ、吸い取られたように止んだ。隣の子がシャープペンを回す音も、誰かの笑いも、一拍遅れる。教室は形だけそのままなのに、音の網だけが彼女の足元で切れ、そこに空白が生まれていく。
透真だけが、その欠落の冷たさに眉をひそめた。黒板の端に残る白い線の粉が、ふいに雪のように見えた。あの屋上の白い花弁。それと同じ質感。
凪は窓際の空いた席にすっと座り、机の引き出しに手を入れて何か確かめる。隣の子が話しかけようとして、彼女の顔に気づいて言葉を探す。凪は小さく笑って頷いた。その笑いに、誰も不自然さを見出せないだろう。綺麗だった。ただ、それだけの綺麗さが、そのまま刃にもなることを、透真は知っている。
彼女の目が、ほんの一瞬だけこちらを見た。脈打つ音が、胸ではなく、机の木目の向こうで鳴ったように聞こえる。あの夜、雨に消された信号音の律動。彼女はゆっくりと瞬きをして、視線を逸らした。
休み時間に、しずくが席に寄ってくる。髪をポニーテールにして、いつものいたずらっぽい笑みを少し抑えている。
「見た?」
「見た」
「うちらの職場、どうしていつもこうタイミング悪いことになるかなあ」
「向こうにとっては都合が良いのかも」
「それ、ほんと嫌。……でも、授業中は動けない。榊さんも律さんも、すぐにでも保護って言ってきたけど、今は目立つのが一番ダメ」
しずくの声は、表面だけ明るい。足先が微妙に揺れているのを透真は見た。彼女も感じているのだ、あの空白を。
「昼、気をつけて。ああいう子は、狙う時、ひとりにさせるから」
「真白には?」
「わたしが見てる。あの子、ちょっと無防備だから」
「頼む」
「頼まれた。……ほんと、あの子に嘘つきたくないんだけどね」
しずくはため息まじりに言って、そして教壇の前の転入生の方をちらりと見た。凪はノートを開いて、奇妙に端正な文字で何かを書いていた。ひと筆ごとに、紙が音を出さない。
昼休みのチャイムが鳴って、弁当箱の蓋が一斉に開く音が教室を満たす。箸の触れ合う乾いたリズム。凪は席を立たなかった。ただ、教室の後ろの掲示板を眺めるふりをして、窓際の透真の席の方へ歩いてくる。彼女が近づくたびに、大きな音が小さくなり、小さな音は消えていった。
「鳴瀬くん」
名前を呼ばれて、周囲の数人が「知り合い?」と目を丸くする。透真は目だけでしずくを探す。彼女は廊下の向こう側で一年生に捕まって、文化祭の写真を見せられていた。槍のように視線を飛ばしてきたが、すぐに来られない状況だ。
「屋上、行こう」
凪はそう言って、机の端にひとひらの紙を置いた。真っ白なメモ用紙。何も書かれていないのに、意味だけが乗っている。それは合図の形をしていた。
断っても、きっと彼女は来る。断れば、もっと深いところで来る。透真は立ち上がり、周囲に適当な嘘を並べて席を離れた。階段を上がるたびに、校舎のざわめきが一層遠のく。屋上の扉の前で、透真は一度だけ時計を見た。昼休みはまだ半分以上残っている。
屋上は空が近かった。夏の名残の雲が薄く引かれている。フェンスの向こうに見える街は、先週と同じ形をしているはずだった。
凪はフェンスに背を預けて立っていた。風が彼女の髪を揺らしても、音は立たない。彼女は透真を見て、微笑む。
「来てくれて、うれしい」
「話をするだけだ」
「うん。話をしよう、鳴瀬くん」
凪はゆっくり歩み寄る。足音はない。彼女の周りだけ、遠くの車の音も、鳥の羽ばたきも途切れた。透真は、彼女が距離を詰めるのに合わせて、一歩も引けない自分に気づいた。足首が、目に見えない何かで結ばれているみたいだ。
「わたし、凪。名前の通り、風を止めることができる」
空気が、わずかに固くなる。冗談ではない。彼女の笑みは、穏やかな波の上に浮かぶ月の反射のように冷たい。
「鳴瀬くん。妹のこと、澪ちゃんのこと、忘れたら楽になるよ」
澪の名を、他人の唇が言う。その音は、やけに澄んで透真の鼓膜に届いた。視界の端で、フェンスの銀が白く光る。手のひらが汗ばんだ。
「……どうして、澪のことを」
「知ってる。あなたの中に、彼女の残した揺れがあるから。あなたの響きは、彼女の星でできてる。ねえ、つらかったね」
凪は、彼の胸にそっと指先を触れた。触れた場所が、音もなく冷える。
「ずっと謝ってる。ずっと、雨の夜に立ちすくんでる。——終わらせよう?」
問いかけは、問いというより、優しい音程だった。疑問符ではなく、休符。わかる。言葉になる前に意味が落ちてきて、心臓の表面に積もる雪のように溶けていく。透真は唇を開きかけた。
「どうやって」
「わたしの庭で、あなたから痛みを引き離す。音も、痛覚も、思い出も、ぜんぶ止まる場所。そこでは、澪ちゃんは泣かない。笑ってる。何度でも」
凪は一歩踏み出した。白い何かが、彼女の足元に咲く。花弁。雪ではなく、紙でもなく、音のない花。触れれば、消えるような。花弁はふわりと舞い、色を持たないまま校章の入ったフェンスに引っかかって、形を失った。
世界が、静かに裏