宵鳴りのレゾナ 第5話「第四章 文化祭は泣いている」
朝の光は校舎の白壁に柔らかく跳ね、窓という窓から人の息づかいを吸い込んでいた。ポスターのインクはまだ湿っていて、貼られたばかりの模造紙の角が、廊下の風にほんのわずか持ち上がっては、すぐ伏せた。 文化祭前日。体育館では舞台の建て込みが佳境で、吊り物のバトンがゆっくりと上下し、舞台袖にはケーブルの黒い蛇がとぐろを巻いている。教室からは合唱の音階が漏れ、屋上ではロックバンドのチューニングが風に散っていた。期待、焦り、眠気、嫉妬。混ざり合うそれらは、透真の耳の奥で、ひとかたまりの低い「泣き」として鳴っていた。
朝の光は校舎の白壁に柔らかく跳ね、窓という窓から人の息づかいを吸い込んでいた。ポスターのインクはまだ湿っていて、貼られたばかりの模造紙の角が、廊下の風にほんのわずか持ち上がっては、すぐ伏せた。
文化祭前日。体育館では舞台の建て込みが佳境で、吊り物のバトンがゆっくりと上下し、舞台袖にはケーブルの黒い蛇がとぐろを巻いている。教室からは合唱の音階が漏れ、屋上ではロックバンドのチューニングが風に散っていた。期待、焦り、眠気、嫉妬。混ざり合うそれらは、透真の耳の奥で、ひとかたまりの低い「泣き」として鳴っていた。
「透真、こっち。配線、もういっこ借りたい」
真白が体育館後方の放送卓から手を振る。白いケーブルタイを口にくわえ、前髪が額に張り付いている。彼女の指示で、透真はプロジェクターの設置位置を数センチずらした。スクリーンの白が会場全体に薄い昼をつくる。自分たちの短編映像は、明日の午後、三年企画のひとつとして上映される予定だ。生徒の顔や手元、笑い声やため息を、ここ数週間で透真は集めて編集し、真白がナレーションをつけた。
「テスト再生、音、出る?」
「出るはず」
透真はラップトップを接続し、ボリュームを上げる。スピーカーから、ざらついた校内の足音、男子がふざけて叫ぶ声、誰かの小さなため息がつながって流れ出る。やがて、笑い声が重なり、無数の手のひらの拍手が広がり、体育館の梁まで満たした。
拍手。空気にしわが寄るみたいに、天井のパイプがわずかに震えた気がした。透真はアンプの横に置いた自分のレコーダーに、うっすらと手を触れた。古い、銀色のそれ。妹が最後に残した機械。録音ボタンを押しても、彼女の声だけは何度試しても空白になる。その空白は今日も冷たく口を開けている。
「いいじゃん、今の。ちゃんと笑ってる声だ」
真白は映像の冒頭で自分が録った「はじまりの音」を聴き、満足げに目を細めた。彼女は他人の気持ちに敏い。だからこそ、余計に心配させたくなくて、透真は夜警局のことをまだ話せずにいた。
「昨日の編集、無理してない?」と、彼女は唐突に尋ねる。
「平気。寝た」
「ならよかった」
本当は二時間しか寝ていない。地下ホールでの訓練のあと、彼は深夜の校舎の外周を歩き、文化祭の準備をする生徒たちの声を録音した。段ボールを運ぶ音、机の脚が床を擦る音、いら立ちを含んだ早口の指示。音は嘘をつかない。透真には、それが美しくもあり、怖くもあった。
体育館の奥で、バスケットボール部の誰かが浮かれてドリブルを始め、顧問に咎められて、すぐ静かになった。静かすぎる。透真はふと、空気の端にひっかかる冷たさを感じた。
拍手の波形が、モニター上で突然、すっと消えた。映像上は流れているのに、音が抜ける。ラップトップの針が震えているのに、実際の空気は固い。スピーカーからは何も出ない。耳鳴り。違う、これは——。
「しずくは?」
思わず口をついた問いは、自分でも意外なくらい切実だった。昨日の連絡で、彼女は今日、校内の見回りをするという。夜警局・第七班の仮メンバーになってから、透真はこの学校の「音」の様子が、別の層で揺れているのに気づくようになった。
「しずくちゃん? さっき中庭で焼きそばの手伝いしてたよ。あの子、器用だね」
真白の答えはのんびりしているが、透真の背中には、もう冷たい汗が滲んでいた。体育館の奥の黒幕の向こう、昼の熱気とは別の、ひやりとした陰が、ゆっくり広がってくる。期待と失望が混ざった泣き声が、一つにまとまり、波になりつつある。
体育館全体での最終リハーサルが夜まで組まれている。その前に段取りを確認しようと、顧問教師たちがステージ上で腕を組んでいた。パネルを動かす美術班の手つきが、急にぎこちない。
午後の終わり、窓の外の空はうっすらと藤色に変わり、舞台の上に吊るされたライティングが、テストで一斉に点灯した。白熱電球のオレンジとLEDの冷たい青が交錯し、体育館の空気を刃物のように鋭くする。ざわめきは大きくなり、やがて一瞬、すべてが止まった。
その瞬間を、透真は嫌というほどよく知っている。音が、息を潜める瞬間だ。喰響が生まれる前触れ。
最初に消えたのは拍手の音だった。誰も鳴らしていないはずの、意識のふちで鳴り続けるあの音。次に、椅子の軋む音が消え、ナレーションの原稿を読む誰かの喉が空滑りして、声が出なくなる。体育館に敷き詰められた床板の碁盤目が、音を吸って黒ずんだ。
視界のはずれ、観客席の一角に、影が座っていた。無数だ。白い手首に黒い袖。顔はない。肩から先が空白のように切り取られ、ただ、手のひらだけが正面にそろえられている。手は、動かない。拍手をするために生まれたはずの手が、閉ざされたまま、ただ見る。息を殺して、欠点を探すように。
喰響《拍手のない観客》。
それは、舞台上の装置を道具にした。バトンがひとりでに降り、ライトが一灯、ゆらりと外れて揺れた。天井近くの滑車の金属音が、湿った布の奥に隠れる。仕掛けの幕が、不自然な角度で裂け目をつくる。
「透真、危ない!」
真白の肩から、冷たい重さが落ちかける。透真は反射的に、手を差し伸べていた。右手の甲に、熱が走る。音叉痕が微かに光り、世界の縁で鳴った透明な鈴のような音が、彼の中でほどける。
「——来い」
白い弦が現れた。何もない空間に、光線のような線が、舞台と客席の間を渡る。それは、透かし彫りの楽器のように、柔らかく、それでいて硬かった。《灰鐘アステリズム》。彼が、自分の中で初めてその名を受け入れた武装。
落ちてくるスポットライトの軌道を、弦で切り替え、生徒たちの頭上をそれさえない弧に変える。鉄の塊はすれすれで床に落ち、鈍い音を立てた。遮音されたはずの音が、たしかに届く。観客席の影が、いっせいに首のない顔を彼に向けた気がして、空気が凍る。
舞台袖から、白いスニーカーが駆け込んできた。
「遅れてごめん!」
八雲しずくが、ジャージの上着の袖を捲りながら、体育館の中心へと飛び出してくる。彼女の周りに、何もないはずの空中から、細かい水の粒が現れ、音符の輪郭をとる。刃のように尖った雨粒が弧を描き、客席と舞台を切り分けた。水が床に落ちる音がしない。彼女の刃だけが小さな鈴を鳴らし、無音の海に微かな波紋をつくる。
「喰響、でかいね。みんな、離れて!」
彼女の声は、確かに届く。透真は真白の肩を引き、放送卓の後ろに身を寄せさせた。真白の手は冷えて震えている。けれど、その目はしっかりと透真を見ていた。
「……行くの?」
彼女の問いは、恐れというより、確認だった。透真はうなずいた。何かを言いかけて、飲み下す。言葉は違うタイミングを待っている。
客席の影が次々と立ち上がった。空席のはずの椅子から、形だけの観客が抜け出し、体育館の床いっぱいに広がる。ひとつひとつが両手を胸の前で重ねて、拍手の準備をしているように見えるのに、その手は閉じられたまま開かない。
喰響は、観る。見られる者に、未来の「失敗」を投げ返す。最初にそれに捕まったのは、舞台袖の一年生らしい女子だった。スクリーンに、翌日の彼女の演技が映し出される。声が上ずり、台詞を飛ばし、笑い声が、無音の