宵鳴りのレゾナ

宵鳴りのレゾナ 第4話「第三章 調律師の練習帳」

昼下がりの教室は、文化祭の打ち合わせで騒がしかった。模造紙の上を走るペンの音、ガムテープのベタつく匂い、笑い声。鳴瀬透真は窓際の席で、白いイヤホンを片耳だけに差し込み、録音アプリの波形をぼんやり眺めていた。波形のどこにも澪の声はない。そこだけが、湖面の凪のように平らだ。

昼下がりの教室は、文化祭の打ち合わせで騒がしかった。模造紙の上を走るペンの音、ガムテープのベタつく匂い、笑い声。鳴瀬透真は窓際の席で、白いイヤホンを片耳だけに差し込み、録音アプリの波形をぼんやり眺めていた。波形のどこにも澪の声はない。そこだけが、湖面の凪のように平らだ。

「鳴瀬くん、いる?」
 前の列から身を乗り出してきた八雲しずくが、紙テープを二本首にかけたまま覗き込んだ。転校してきて間もないのに、すっかりこの空気に馴染んでいる。
「放課後、行ける? 今日、ちゃんと聴く練習しよう。残響と、ただの残り音は似てるけど違うから」
「……行くよ」
「よし。じゃ、私はこれ貼ってくるから。律先輩、めっちゃ怖いから遅刻厳禁ね」
 しずくは目尻を笑い皺でくしゃりとさせ、教室の後方へ消えた。

チャイムが鳴る。掃除当番が走り回る。透真は帰り支度をしながら、机の隅に置いた古いボイスレコーダーにそっと触れた。指先に薄く刻まれた音叉痕が、皮膚の下でひそやかに脈打っている気がした。

古い映画館の地下へ降りると、さらに下へ続く、封鎖された鉄扉があった。錆びを落とした鍵で榊が一度だけ開けてくれたその扉を、今日はしずくが合図一つで解錠する。階段を抜けると、石造りの広い円形の空間が現れた。かつては舞台があったのだろう。壁のタイルには昔の光の名残のような、ネオンの影がまだ染みついている。音が良く回る。気を抜くと、足音すら風景に溶けていく。

「訓練用のホール。誰が最初に見つけたんだっけ」
「榊さん。昔はここで地下音楽が流行ったらしいよ。だから、音が好きな人の残響が溜まりやすい」
 しずくは床に置いていた黒いケースを開け、薄い銀の刀身を引き出した。《雨燕ノ太刀》。といっても、斬るためではなく、今日は「聴くため」に使うのだとしずくは言った。
「残響は、音じゃなくて、音のない振動。聴こえるってことは、感じるってこと。今日は、それを見分ける。良い?」
「……やってみる」
「透真くんの《灰鐘アステリズム》は、奪われた音を弦に変える。だからこそ、奪っていい音と、触れちゃだめな沈黙を、知ってほしい」

しずくが刀身を水平にして、軽く振る。空気が撓(たわ)み、細かな水の粒が舞い上がった。雨だ。地下なのに。だがそれは濡れる雨ではなく、空間に刻まれた音符の影のような、透明な小さな点滅だ。一粒一粒が、見えない拍を刻む。
「この雨は、音の輪郭を浮かび上がらせる。残響があれば、雨粒が触れたところで、少しだけ色が変わる。透真くんは、その位置に触れずに周りを撫でて、輪郭だけをなぞって」

透真は頷き、手の甲に走る音叉痕に意識を落とした。喉の奥が冷える。視界の端で、廃ホールの壁面がゆっくりと退色していく。光が音になり、音が線になる。白い細糸が、掌の中で震えていた。彼の響器《灰鐘アステリズム》が、呼ばれたのだ。

周囲の雨粒に、ふっと透明な陰りが集まる場所がある。そこが、誰かが言えなかった言葉の堆積、残響だ。透真は弦の端を指で摘み、ほんの少しだけ引く。線が光る。いつでも切断できる緊張の感触。しかし切ればいい場面ではない。しずくが言ったように、輪郭だけ、撫でる。

弦を滑らせるたび、彼の耳の奥に、微かな呻きのような、あるいは笑いの残り香のようなものが触れる。それは痛みに似ていた。妹の名を呼ぼうとすると、喉のどこかが引き攣るあの感覚――。
 いけない。そこには踏み込まない。今は、技術の練習だ。

「そこ、違う」
 低い声が、後方から落ちた。御影律が、入口に背中を預けて腕を組んでいる。黒いコートの裾がいつもより少し無造作で、眠れなかったのかもしれない。だが目は冴えていた。
「右に半歩。雨粒の揺れ方を見ろ。残響は、撫でれば震える。そこはただの、壁の記憶だ」
 律が指で示す。確かに、その場所の雨粒は等間隔で消え、等間隔で現れるだけで、どこにも偏りがない。そこはこのホールが持っていた音――拍手や歓声の名残であり、誰か個人の沈黙ではない。

透真が位置を直し、弦で別の箇所をなぞる。雨粒が少し、色を帯びた。青というより、記憶の底に沈む鉛のような色。誰かの、言えなかった「ありがとう」だろうか。あるいは、怒鳴り声に飲み込まれた謝罪。

「よし。じゃ、次」
 しずくがもう一振りすると、雨の密度が変わった。空間の別の層が、透けて見える気がする。透真は汗が背中に張り付くのを感じた。《灰鐘アステリズム》の弦は彼の感覚と繋がっている。使うほどに懐かしい温度が薄れる。少し前まで確かに思い出せたはずの澪の「笑い声」の高さが、今は曖昧だ。

短い音が床をかすめた。律だ。彼が右手を軽く宙で回すと、透真の周りに薄い盤が現れる。光の溝が刻まれ、黒い中心から音が引き出される。逆回転するレコードのように。
「過去五秒。おまえの手の震え、呼吸、弦の角度。全部、戻して見せる」
 盤の上で、透真の指が数秒前の自分をなぞる。ほんのわずかなためらい。弦が一度、不要に強く張られていた。
「これが、命取りだ。迷子の残響にとって、刃物を当てたのと同じ」
 律の言葉は、容赦がない。だが、正しい。透真は奥歯を噛んだ。

「わかってる」
「わかってない。わかってたらやらない。おまえはまだ、自分の記憶を削っている自覚も甘い」
 吐き捨てるように言い、律はもう一度、盤を回した。床の雨粒が、まるで止まったかのように遅くなる。時間が滑っている。透真がさっき触れた場所に、赤いノイズが一瞬だけ走った。ヒトの怒りの縁だ。触れたら、喰響に育つ。危うい。

「律先輩、言い方」
 しずくが鋭く割って入った。「人」ではない雨粒が、彼女の周りだけ緩やかに踊る。彼女は透真の側に膝をつき、目線を合わせた。
「大丈夫。今のは気づけた。次はできる。ね?」
 頷いた。頷くしかなかった。

練習は続いた。残響の輪郭をなぞる。輪郭だけを。弦を引き過ぎない。拾い上げない。切らない。律は何度も、五秒を巻き戻して見せた。そのたびに、透真は自分の癖を思い知る。焦ると、彼は左に重心を移しすぎる。弦を張るとき、指先に要らない力が入る。呼吸が浅くなる。浅くなると、妹の名前を思い出せない恐怖が胸に上がる。

壁の一角で、雨が小さな縦線を描いた。それは、昔ここで泣いた人間の背中だろう。彼女はきっと、ステージに上がれなかったのだ。緊張で声が出なくて、楽屋で泣いたのだ。透真はそこに触れない。弦でそっと囲う。存在を肯定し、外気のざわめきから守る。流れを整える。雨粒が、穏やかな拍に揃う。

「……やれば、できるじゃん」
 しずくが立ち上がって、刀を鞘に収めた。雨は消えた。空間の温度が少し上がる。律はようやく腕を解いて近寄ってきた。足音がタイルを叩くたび、低い音がひびく。
「さっきよりはマシだ。だが、おまえの弦は雑音を拾いやすい。拾った覚えのある音に引っ張られる。それは弱点だ」
「覚えのある音……」
「妹の声だろ」
 反射的に透真は、律を睨んだ。耳の奥で、針が古いテープを逆なでする音がし、何かが消えかける不安に胃の底が冷たくなる。
「触るな」
「触ってるのは、おまえだ」
 律の目は冷たい。だが、その奥に、別の色がある気がした。手前で止めた怒りの色ではない、もっと