宵鳴りのレゾナ

宵鳴りのレゾナ 第3話「第二章 声のない放送室」

放課後の校舎は、昼のざわめきが嘘のように静まっていた。廊下の蛍光灯はところどころが薄く点滅し、ガラスに映る自分の影は、見慣れた形をしているのにどこか薄い。天井の角に取り付けられた白いスピーカーが、風もないのに微かに震えているのを、鳴瀬透真は見た。

放課後の校舎は、昼のざわめきが嘘のように静まっていた。廊下の蛍光灯はところどころが薄く点滅し、ガラスに映る自分の影は、見慣れた形をしているのにどこか薄い。天井の角に取り付けられた白いスピーカーが、風もないのに微かに震えているのを、鳴瀬透真は見た。

音がない。けれど、あるはずの音があるとわかる。

この感じを、彼はもう知ってしまった。昨夜、高架下で。駅で。そして今、校内放送のどこかから。

「放送室、こっち」

先を急ぐ八雲しずくは、スリッパの音さえ無駄にしない。彼女の指さす先、曲がり角の先の細い通路に「放送室」のプレートが見えた。扉の上には赤い小さなランプ。誰もいないはずの夜に、ON AIRの光だけが一点、血のように明るい。

「先生の誰か残ってるのか」

「違う。触らないで」

しずくの声は、乾いていた。肩にかけたケースから手袋を引き、透真の手の甲を見て、目だけで問う。

「音、聴こえてるんでしょ」

透真は答えなかった。彼の手の甲、淡く刻まれた音叉の痣がうずき、皮膚の下で小さな鐘が震えるみたいに熱を持つ。扉の向こうから、あの声が呼んでいた。

お兄ちゃん。

彼は、喉の奥が詰まるのを堪えた。名前を呼ぶ、その波形だけが思い出の中で生々しい。けれど、澪の声は、いつも空白だ。

「行くよ」

しずくは扉に指を当て、耳を澄ます。ひと呼吸置いて、そっと押し開けた。蝶番が鳴らない。代わりに、扉の向こうの空気が、ひとつ深く沈んだ。

放送室は、機材とガラス窓の狭い箱だった。ミキサー卓のフェーダーはすべて下がっていて、電源ランプだけが点いている。壁の時計は針を進めるのをやめ、秒だけがひとところで震えている。窓の向こうの小さなブースの中、卓上マイクのスポンジが膨らんではしぼみ、誰もいないのに呼吸をするみたいだ。

スピーカーからは、何も聞こえない。だが、彼には見える。空気の粒のすきまを流れていくうっすらとした線。教室や廊下や体育館から集められた「言えなかった言葉」の残り香が、ここに糸巻きのように集められ、固まりかけている。

「ここで育ってる」

しずくがささやく。ケースの留め具を外し、抜き身になった細身の刃に、透明な滴がふっと浮いた。蛍光灯の光を受けて、滴は音符のかたちに変わる。柄の根元に刻まれた燕の意匠が、刹那、翼を広げたように見えた。

「校内放送、聞こえる?」

「何も」

「本当に?」

しずくは、卓の上に置かれた古い原稿用紙の束に目を落とした。そこには誰かの手で書かれた朝礼の挨拶文や連絡事項が、几帳面な字で並んでいる。紙の端が、ざわ、と揺れた。

次の瞬間、原稿用紙の行間から声が溢れ出した。

——昨日はごめん、って言おうとしてたのに。

——体育館裏で、言おう、言おうって。

——私ばっかり、笑ってるふり。

——やめてよ、って言えてたら。

抑え込まれた言葉が、読み上げ原稿の形式で吐き出される。だがそのイントネーションは均一で、言い直しも息継ぎもない。自動音声のように滑らかで、そこに差し挟まれる感情は、すべて削がれていた。

「……校内放送を使って、反芻してる」

しずくの声が固くなる。「言えなかった言葉」を標本のように集めて、読み上げ直す。言葉から温度だけを抜き取る。翌日、その持ち主から声を奪う準備をする。そんなやり口は、夜警局の報告で何度も見た。

透真は、耳の奥が不快に痺れるのを感じた。放送の文面は、彼の知る名前を混ぜた。クラスメイトの苗字がいくつも、無機質な声で発音される。彼が動画の中で拾った笑い声や、編集時に切ったため息の断片が、偽の原稿に縫い込まれていく。

その中心に、やわらかい囁きが紛れた。

お兄ちゃん。

「……違う」

透真は、すぐにわかった。これは、澪じゃない。呼び方が同じでも、響きがない。そこにあるはずの温度が、欠けている。ただ、空白だけがぴったり澪の輪郭のかたちをして、こちらを見ている。

ミキサー卓の奥、ケーブルの束が蠢いた。黒い被膜の下から、無数の白い音符の骨がこぼれ出すように。やがてそれは机を這い登り、ブースの扉の隙間からにゅるりと顔を出した。顔、と言うべきかどうか迷うような、重ね合わされたマイクのヘッドとスピーカーの振動板の集合体。無数の口が同時に開いて、閉じるたびに、周囲の空気がひゅっと凹む。

喰響。

しずくは、足場を取った。床に散る雨粒の符が一斉に跳ね、刃が走る。透明な斬撃がケーブルの束を刻むたび、無音の火花が散った。放送室のガラスに、白い裂け目が走るが、割れない。割れないまま、傷だけが増えていく。

「透真くん。後ろに」

背のスピーカーから、黒い帯が伸びた。誰も触れていないのに、マイクスタンドがくるりとこちらを向く。その先端、スポンジに開いた穴が目のように見え、透真は咄嗟に身をかわす。帯は壁を這い、彼の足首に絡みつこうとした。冷たくも熱くもないのに、触れた皮膚から言葉が吸い込まれていくような錯覚。

彼の指先に、白い線が一瞬、現れた。前夜、駅で見た、あの光の弦だ。何かに引かれて出かかったそれは、透真が怖じた瞬間、霧みたいに消えた。

「嘘だろ」

とたんに胸の鼓動が早まる。彼は自分の中に空いている穴の場所を知っている。妹を事故から救えなかった夜から、ここに空白がある。昨夜、無意識に伸ばした弦は、その空白の縁を削った。これ以上、思い出が薄れるのが、怖い。

「大丈夫、私が」

しずくはそう言って、踏み込んだ。雨燕の太刀が。高速で通路の空気を切り分ける。残響の帯は斬られるたび、記号化された音符になって床に落ち、溶ける。だが、相手は校内全域に張り巡らされた放送設備と結びついている。一本切っても、別の部屋のスピーカーからまた一本が伸びる。天井裏の配線が震え、校舎全体が喉を鳴らすようだ。

「っ……!」

しずくの肩が跳ねた。半歩遅れて、彼女の制服の袖に細い裂け目が走り、赤い線が浮いた。刃は鈍らない。動きも鈍らない。ただ、息が少し巡らない。

「待て、無理だ。いったん——」

「下がって」

彼女の声は強がりじゃない。だが、喰響の波はそれを飲み込もうとする。スピーカーの群れが開くたび、室内の酸素が奪われ、言葉が喉に引っかかる。発声するための筋肉が、一瞬、誰かの言えなかった想いに縛られるのを、透真は身をもって感じた。

——もう、無理。

——だって、怖かったから。

——ごめ、ね。

文字通り、口の中に他人の言葉が差し挟まれる。うつむきかけたしずくの両肩を黒い帯が捕まえ、細い首に巻きつこうとする。声ごと、彼女を吸い出してしまおうとする、機械の口。

「離れろ!」

透真は反射で手を伸ばした。左手の甲が鋭く熱を持ち、痣が音をたてて震える。出ろ。出るな。白い弦の気配が皮膚の下を走る。イメージすれば出せるのかもしれない。けれど、その核が何でできているのかを、彼は知っている。

澪の記憶。澪の声。代償は、それが薄れていくこと。

嫌だ。忘れたくない——忘れたくないくせに、彼は一度も言えなかった。

黙っていた。何度も、喉まで上がってきたのに