宵鳴りのレゾナ 第2話「第一章 駅の向こう側」
朝は、音が薄い。夜の名残がビルの谷間に溜まり、通りの車列がばらばらに息をする。鳴瀬透真はベッドの縁に座り、カーテンの隙から割り込む白をまぶしそうに眺めていた。指先に重さがある。昨夜握りしめて眠ってしまった、小さなボイスレコーダー。
朝は、音が薄い。夜の名残がビルの谷間に溜まり、通りの車列がばらばらに息をする。鳴瀬透真はベッドの縁に座り、カーテンの隙から割り込む白をまぶしそうに眺めていた。指先に重さがある。昨夜握りしめて眠ってしまった、小さなボイスレコーダー。
電源を入れると、液晶に時刻と、日付が並ぶ。問題のファイルにカーソルを合わせ、再生。耳を裂くような無音が、かえって濃く感じられる空白となって流れはじめる。メーターは動かないのに、波形の窓だけが微かに揺れる。そこだけ、温度が違う。終盤、細い山がふっと立ち上がっては消える。「——お兄ちゃん」。音にならないのに、文字だけが脳の内側に焼き付く。
澪の声は、聴こえないはずなのに。
指で止めて、深呼吸した。今さら、錯覚じゃないと言い切る自信もない。けれど空白のかたちが、呼びかけの輪郭をしていることくらいは、もうごまかせなかった。
「……行くか」
いつも通りに制服に袖を通し、台所でパンを一枚焼いて、母の残したメモに「行ってきます」の一言だけ書き足して家を出る。秋に傾きかけた空は、雨上がりの濁りを引きずっている。団地の階段を降りるたび、踵に過去の湿気が跳ね上がるような感覚がする。
通学路を抜けて駅へ入ると、いつもより声が少ない。ホーム上の広告スクリーンには、朝の情報番組のテロップが走っていた。「昨夜、都内複数駅で原因不明の体調不良」「声が出ない症状訴え」——アナウンサーの声音はやけに軽く、「季節の変わり目で喉をやられたのでは」なんて街頭インタビューを繋ぐ。
軽いのは、きっと救いだ。深刻にされると、自分の眼で見たあれが、現実のど真ん中に杭で打たれる気がする。
電車が来て、ドアが開く。車内でも、話し声はわずかだ。みんな、まだ呼吸の仕方を思い出していないみたいな顔をしている。透真はポケットのなかで、レコーダーの角を爪でなぞった。
学校は、平凡の権化みたいな鉄筋の箱だ。チャイムが鳴り、靴の擦れる音と机の引きずる音が教室の床を滑っていく。透真の席に、柊真白がすべりこむ。短く切った前髪の下の目が、じっとこちらを見る。
「おはよ、透真。顔、青い」
「そう見える?」
「見える。ていうか、昨日の夜、駅で何かあったって——」
鋭い。真白は昔から、誰より早く空気の乱れに気づく。彼女の家は駅の近くで、小さな雑貨店をやっている。人の出入りと、天気の機嫌に敏いのも当然だ。
「ただの……ちょっと騒がしかっただけ。ニュースのやつだよ」
「ふうん?」
納得はしていない声。だけど深追いしない。それが彼女のやさしさの形だとわかってるから、透真はほっとして、教科書を取り出した。
「あ、そうだ。今日、放送部、機材の入れ替えするんだって。暇だったら手、貸してくれない? あなた、ケーブルとか配線、早いじゃん」
「放送部、入った覚えはないけど」
「大丈夫、無所属ボランティア。お礼は飴」
「安いな」
店先でもらえるキャンデーの甘さを思い出して、少しだけ笑いが漏れた。わずかな間、昨夜の白い弦の手応えは、机の木目の隙間に落ちていった。
ホームルームが始まる。先生が入ってきて、一拍置く。いつもなら小言が続くはずなのに、今日は妙に間があった。
「えー、ニュースでもやってるけど、昨日体調を崩した人が多かったらしい。みんなも季節の変わり目は体調管理に気をつけること。それと——はい、新しいクラスメイトを紹介する」
どよめき。ドアが開く。そこに立っていたのは、昨日、雨を従えて怪異を断った少女。
「八雲しずくです。東京は初めてで、迷子になりがちです。よろしくお願いします」
笑いが起こり、拍手が混じる。自然体の挨拶。黒髪は肩で跳ね、瞳は雨を吸った石みたいに深い。しずくは一瞬だけ、教室を見回して——透真と目が合った。淡い笑みが、ほんの少し深くなる。胸の奥が、跳ねた。
席は後方の窓際。彼女は教科書を受け取りながら、周囲の質問攻めに耳を傾け、軽くかわし、時折真面目に聞いては、ふっと笑う。その立ち回りは、子どもっぽい反射神経と、大人びた配慮が同居していて、不思議な均衡があった。
昼休み、真白は、しずくの机に自作の「学校案内メモ」を置きに行っていた。戻ってくると、とぼけた顔で言う。
「転校生、可愛いね。あ、でもあなた、目線がさっきから妙に泳いでるのは、ただの寝不足?」
「たぶん寝不足」
自分でも苦しい返しだと思いながら、メロンパンをかじる。視線を感じて顔を上げると、しずくがこちらを見て、筆箱で口元を隠しながら、小さく唇を動かした。「放課後」。それだけの音が届いた気がした。
放課後。校門の外で、しずくが待っていた。真白と一緒に帰ろうとした透真は、足を止める。
「ごめん、柊さん——今日はちょっと」
真白は、二人を見て、なんとなく状況を把握した顔になった。疑いのない笑みで頷く。
「じゃあ、また明日。放送部、手伝い、明日でもいいから」
「ああ」
校門の影は長く、アスファルトに落ちる人影が西日で薄く焼ける。しずくは小さく手を振ってから、透真の袖を引いた。
「こっち」
駅前の喧騒から外れて、古い商店街の細い路地へ。看板の剥がれた電気店、シャッターの半分降りた文具屋。昔は賑わったはずの映画館の前に立つと、ネオンサインの枠だけが空を切り取っている。表のガラスは少し曇っていて、中には古いポスターと、褪せた赤いビロードの椅子が見えた。
「閉館してるはずじゃ——」
「表向きはね」
しずくは自動ドアの横のパネルを指でなぞり、見えない鍵穴に合うように音を刻むみたいに、指を二度、三度、軽く弾いた。ぴ、と乾いた音がして、ドアが開く。
館内は、埃の匂いより前に、音が整っていた。床の軋みも、空調の唸りも、妙に一定の拍で、乱雑さが薄い。しずくに続いて通路を抜け、スクリーンの前で立ち止まる。彼女は左右の壁の間を測り、右側の幕の陰に手を差し入れた。ぱちん、と、場違いな指パッチン。とたんに、スクリーンに走った微細な亀裂が、白い弦のように明滅して、縦に裂けた。
その向こうに、階段がある。冷たいコンクリートに導かれるように、降りていく。足音が、薄く吸い込まれていく。壁には古い映画のスチルがモノクロで並び、間に無線機や、波形が走るディスプレイがはめ込まれていた。階段を降りきると、地下は思ったより広く、白い壁と低い照明が続いている。
その中心に、鐘楼のシンボルを模したエンブレムが掲げられていた。円のなかに、四つの短い線が組み合わさり、音叉のようでもあり、塔の影のようでもある。
「ようこそ、夜警局へ」
軽い声。スーツの上着のボタンを外し、ネクタイをゆるめた男が立っていた。榊玲司。笑っているのに、目のどこかは笑っていない。爪の先まで、疲れと覚悟が染みているような佇まい。
「昨日は助かったね、八雲。で、君が——」
「鳴瀬透真」
「鳴瀬くん。はじめまして。僕は第七班の班長、榊。ここは、君みたいなものが見えたり聴こえたりする人間が、こっそり働く場所だと思ってくれたらいい」
手を差し出され、透真は一拍置いて握り返した。榊の手は、意外に温かかった。
「君の手の甲、