宵鳴りのレゾナ 第11話「第十章 白夜の指揮者」
ホームの非常灯が、台風の夜に似合わぬ白さで瞬く。廃駅の天井からは雨の筋が落ち、線路の黒に音なく溶けていった。電光掲示板の文字はやはり乱れ、幾つかの駅名が白く消し込まれている。透真は、その消え目のなかに自分の心の穴を見た。
ホームの非常灯が、台風の夜に似合わぬ白さで瞬く。廃駅の天井からは雨の筋が落ち、線路の黒に音なく溶けていった。電光掲示板の文字はやはり乱れ、幾つかの駅名が白く消し込まれている。透真は、その消え目のなかに自分の心の穴を見た。
ホームの縁、闇と白の境に立つ男が、ゆっくりとこちらへ手を上げた。黒いコートがやさしく揺れる。顔立ちは静かだ。目は疲れているのに、どこまでも澄んでいる。
「ようこそ、無響駅へ」
久世玄雅の声は、波打つ前の海のようだった。静けさが、耳の奥の古傷に触れ、ひりと疼かせる。
その隣に、凪がいた。薄い色のワンピースに白い花弁のような光が降り積もり、裸足のつま先まで白い砂の上に乗っているみたいだ。顔は泣きはらしたばかりで、しかし涙の音はどこにもなかった。
「おまえが、久世玄雅」
しずくが先に口を開いた。濡れた前髪を指で払って、目付きは鋭い。
「写真より老けてるな。心労か?」
軽口の裏に緊張がある。律は肩を少し落としながらも、久世の足元と天井の梁とを交互に観察している。彼の指は無意識に、掌の見えない盤面をなぞっていた。
久世は、しずくの冗談に微笑みで返した。
「心労なら、とっくに尽きていますよ。八雲しずく、あなたの兄のことは……」
「言わないで」
しずくの剣気が、まだ刃にならぬまま空気を震わせる。久世は深く頭を下げた。
「失礼しました」
透真は久世の視線が自分に落ちるのを感じた。その視線は重くも鋭くもなく、ただ、こちらの背負うものの輪郭を確かめようとする手つきに似ていた。
「鳴瀬透真くん。君には、会わねばならないとずっと思っていた」
「……澪のことを、知ってるんだな」
「君の妹は、この街の残響にとっても、ここにいる凪にとっても、重要な節でした。私がそれを利用したのは事実だ」
久世は凪の肩に触れようとして、しかし直前で手を止めた。凪はそれに顔を向け、空虚な目をぱちりと瞬かせる。
「凪。君は……どう、感じている?」
凪はしばし考えるふうもなく、か細い声で言った。
「寒い。でも、冷たくはない」
意味の掴めない言葉だった。けれど、なぜだか透真には、その矛盾が凪という存在の輪郭のように思えた。
「凪は、救済の証明だ」
久世が言った。語調は独白に近い。誰かに向けるというより、自分に言い聞かせるように。
「私はかつて、調律師でした。阪南の地震、湾岸の火災、豪雨の土砂。現場に立つたび、助けた人の数より、助けられなかった人の残響ばかりが耳に刻まれていく。静まりかえった避難所の床に、子どもの『まだ起きてるよ』が染みついていた。病院の廊下に、妻を呼ぶ声がいつまでも消えない。誰かのうめきが、やがて『もういいよ』に変わるのを、私はただ聴くことしかできなかった」
言葉のひとつひとつが、駅の壁のタイルにぶつかって反響するようだった。久世は目を閉じた。薄く笑った顔が、痛みの形をしていた。
「それでも現場には行き続けました。『あなたの痛みは、あなたを強くする』と何度も言われた。でも、それは言う側の慰めです。痛みが人を壊すのを、私は嫌というほど見た。だから、思ったのです。いっそ痛みそのものを、消してしまえたらと」
「それが、白夜計画」
律の声は低いが、理解の温度を持っていた。彼の眼差しには、千景を失った夜の影がまだ残っている。
「ええ。都市の残響を同期させれば、個々の記憶の痛点は薄れる。忘却は、恐怖ではない。救済なのです。凪は、その成果のひとつだ。彼女は教団の実験で兄を失った子の残響から生まれた。誰の悲しみか、もはや定まらない哀しみ。だから痛みの名を失っている。苦痛は、名があるから刺青になる。名を消せば、ただの静けさになる」
「証明、ね」
しずくは唇を歪めた。その歪みが、泣きたいと笑いたいの間に揺れている。
「彼女を、ものみたいに言うな」
透真は、ようやく自分の声を外へ押し出した。自分でも驚くほど、喉が乾いている。
「凪は、凪だ。誰の悲しみから生まれたかを、知らないままでいるのが楽なら、それでもいい。けど、それを『証明』だとか『成果』だとか、名前のない場所に縛るな」
凪がはっと顔を上げた。その目に初めて、確かな焦点が生まれたように見えた。
「……わたしは、凪?」
「そうだ。おまえは『凪』だ。俺がそう呼ぶ」
その瞬間、ホーム全体がわずかに軋んだ。雨の筋が、空中で途切れて浮いた。時計の秒針も、電光掲示板の乱れた文字も、いっせいに足を止める。時間が、息を飲んだ。
「始めましょう」
久世が一歩、白に踏み入る。彼の足下から、細い線が蜘蛛の巣のように四方へ走った。レールが二本の線から五本六本へ増え、ホームの梁と梁が結ばれて巨大なハープに変わっていく。柱はパイプオルガンの管となり、発車標は譜面台のように文字の代わりに見えない符号を照らした。
「響器《無窮の譜架》。都市の残響よ、私の拍に従え」
久世の右手に、いつのまにか黒檀の指揮棒が生まれていた。彼がそれを軽く振ると、ホームにいた顔のない乗客たちの輪郭がほどけ、白い紙片となって天井高く舞い上がる。紙片の裏には、消えかけた住所や名前や、忘れられた約束の断片が滲んでいた。
凪の足下から、白い花弁が渦を巻く。花弁は音さえ奪いながら、彼女の体をすくいあげ、天井の中央に開いた暗い穴へと細い糸でつなぎ始める。
しずくが一足で前に躍り出る。雨はないはずのホームに、彼女の周囲だけ小さな降りが生まれた。彼女が抜いた刃が雨を掬い、音符状に固め、束ねて弧を描く。
「《雨燕ノ太刀》——!」
飛燕のようにしずくが駆け、譜架の一本を斬った。切断面は音もなく、同時に眩しい光の粉が弾けて、久世が一歩だけ退いた。
同時に、透真は腰のポーチに指を入れ、銀の痕をなぞる。掌の中心にある白い音叉痕が、微かな熱で返事をした。目の前の空気に、見えないはずの波が浮かび上がる。
「——《灰鐘アステリズム》」
奪われた音の残光が、無数の細い弦になって張られていく。ホームを満たす残響の網の目だ。透真はそれを掴み、引き、結び、楯にし、矢にする。久世の指揮棒が振られるたびに波が押し寄せ、彼は弦の壁でそれを受け止めた。
一波がぶつかるたび、透真の頭のどこかがすうっと薄くなる。耳の奥で、妹の声の形だけがぼやける。『兄ちゃん』と呼んだ唇は見えるのに、音が出てこない。それでも、弦を張る手は止まらない。ここで止めたら、声が戻る場所まで失う。
「律!」
しずくが叫ぶ。久世の棒が一拍、空を切る。時間が一瞬、凪の周囲で凍った。
律は息を飲み、靴底を半歩滑らせて位置をずらした。彼の周りに黒いレコードが三枚、ふわりと浮かぶ。溝に光が走る。
「《逆光レコード》——三秒巻き戻し」
ホームの一角で、水滴が天井へと戻り、しずくの刃が一瞬だけ過去の位置へ踊り返る。そのわずかなずれが久世の第二拍を空振りにした。凪を縛る白の糸の一本が、たわんで緩む。
「やりますね」
久世は淡々と告げ、譜架に短いスタッカートを打ち込む。管が鳴らぬはずの音を鳴らし、空白の音が圧になって押し寄せる。透真の弦がきしみ、視界の端