宵鳴りのレゾナ 第12話「第十一章 灰鐘アステリズム」
地上は、雨粒の密度を増した。台風の縁が街の輪郭を撫でていくたび、色がほんの少し抜け落ちる。信号機は赤と青のあいだで躊躇し、交差点のスピーカーは、何かを伝えようとして口をつぐむ。バス停で傘を握る老女が、目の前にいるはずの孫の顔をまじまじと見つめ、笑おうとして笑えない。スマートフォンの画面で、連絡先の一行が、一行、また一行と空白に変わる。
地上は、雨粒の密度を増した。台風の縁が街の輪郭を撫でていくたび、色がほんの少し抜け落ちる。信号機は赤と青のあいだで躊躇し、交差点のスピーカーは、何かを伝えようとして口をつぐむ。バス停で傘を握る老女が、目の前にいるはずの孫の顔をまじまじと見つめ、笑おうとして笑えない。スマートフォンの画面で、連絡先の一行が、一行、また一行と空白に変わる。
無響駅の底から、見えない凪が広がっている。風ではない。音の圧力差が、街を柔らかく撫でていく。人の胸の中に沈んでいた声が、じわじわと持ち上げられていく。雨樋から滴る水が途切れ、川面のさざなみが、一瞬だけ静止する。
「名前を、呼んで」
避難所の体育館で、柊真白はマイクを握った。館内放送のスピーカーは古い。金属の薄い響きだけが天井に散る。
「忘れたくない人の名前を、声にしてください。ここにいない人でも、遠くにいる人でも。さっきまで思い出せたのに、って怖くなったら、隣の人と確認し合って。録音します。届きます、きっと」
彼女の横で、ノートパソコンが開かれ、編集ソフトの波形が無数に走る。カメラ三台。電源ケーブルは発電機につながっている。掲示板の短い動画をループ再生しながら、彼女は肩越しに振り返った。画面に映るのは街角の笑顔、子どもが手を振る、パン屋の湯気、雨に濡れた欄干。透真が撮りため、真白がつないだ街の断片だ。
「お母さんの名前は……美佐子。美佐子。美佐子」
体育館の隅で、若い男が両手で顔を覆ったまま、うわずった声で繰り返しはじめる。それを合図に、他の人々も名前を探り、形にしていく。
「光太郎。光太郎。光太郎」
「柴犬のポチ。ポチ、おいで」
「お父さん、健二。健二」
「斎藤先生!」
雑多な声が壁に当たり、重なり合い、天井の蛍光灯を震わせる。真白はスイッチを切り替え、外部マイクへ入力を流した。窓の外は白い雨だ。だが、音は、確かに地の底へ向かって落ちていく――彼女の心にもそう感じられた。
地下、異界化した無響駅のホーム。
空間の縁がずれるたびに、駅名標がほんの少し違う文字列を見せる。『むきょう』『むこう』『む』。電光掲示板が、淡い光で踊るように点滅した。
『次の列車は わすれもの行き』
既に慣れたはずの不気味さが、今日に限って生々しい。第七班はホームの奥へ進む。御影律が先頭。八雲しずくが肩越しに身を低く、榊玲司は最後尾で結界を展開したまま歩く。鳴瀬透真の指先には、灰色の光が絡む。響器《灰鐘アステリズム》が、鈍い脈動を上げていた。
空気が波打った。線路から白い花びらが舞い上がる。花弁ひとひらひとひらが、浮いているのに落ち続けるような、不可能な重力を孕んでいる。それに触れた蛍光灯の光が、一瞬で色を失って砕けた。
凪の庭だ――。
ホームの中央、列車の行き来を監視するはずの巨大な盤面が、パイプオルガンのような形状に変形し、無数のスリットから暗い光が漏れる。その横に、白い影が立っている。凪。細い腕がほつれている。久世玄雅が、その小さな肩に片手を添え、遠いものを見る目で、駅の天を見上げていた。
「君たちの選択を、尊重するよ。そのうえで、私は、これしかないと思っている」
久世の声は、静かに澄んでいる。憎悪の欠片もない。だからこそ、圧がある。
「苦しみは、積み上がるだけだ。誰も、軽くしてやれなかった。君たちが今日ここで背負うものも、数年後、数十年後に、また別の誰かの背負うものに重なる。それを、終わらせたかった」
榊の結界《鐘楼》が低く鳴った。音はない。だが、空間の輪郭が少しだけ硬くなり、時間の流れがゆっくりと歯車の噛み合う音を立てる。
「そのために子どもを核にするのは、終わらせる、じゃない。始めてしまっただけだ」
榊が短く応じた。久世は、穏やかな笑みを崩さない。
「子どもだけじゃない。君たちも、いずれは核になる。誰もが、誰かの中に生きて――そして苦しむ。その構造そのものを、私は解体したい」
透真は、一歩踏み出した。視界の端で、灰色の光が伸び、編み紐のように絡み合っていく。《灰鐘アステリズム》の弦だ。いつもなら細い弓弦のようなそれが、今日は太い。むしろ、星座の線に近い。
喉の奥に、冷たいものがある。妹の名を口に出せば、それが少し溶ける気がするのに、声帯が固まっている。
澪――。
唇が微かに動いただけだ。音は出なかった。彼は深く息を吸い、胸の内側で名前を呼んだ。呼んだはずなのに、返ってくるはずの、あの軽やかな返事の高さが、空白になっている。
無線が耳の中で鳴った。真白の声だ。地上からの音圧が、カチリと彼の中の何かに噛み合う。
『聞こえる? 透真。こちらは大丈夫。今、みんな、たくさんの名前を呼んでる。届くよ。あなたの方へ』
「……ああ」
透真は応え、左手を前に出した。灰色の弦が、雨滴を集めたような光を宿す。無響駅が吸い上げ始めた「失われかけた声」を、彼の響器は弦へと変換し、網のように周囲へ張り巡らせていく。弦は線路の枕木をなぞり、壁のタイルの目地を辿り、駅員室の窓ガラスを透過して、やがて天井へ達した。天井は天ではない。そこは、街へ直結した薄膜だ。膜の向こうから、雨と一緒に名前が落ちてくる。
「美佐子。光太郎。ポチ。健二。斎藤先生」
無機質な駅の闇に、柔らかい粒が混じる。声は光になり、光は弦になって、透真の指先に触れた。指先の感覚が熱くなった。その熱が、逆に、胸の奥の冷たさを際立たせる。
しずくが、疾走した。《雨燕ノ太刀》が、彼女の右手で雨の軌跡を描く。雨粒は音符になり、音符は刃になり、凪の庭の静寂の層に斜めの裂け目を走らせた。静けさが破れる音はしない。代わりに、破れ目から色が漏れる。
「透真! 道、開ける!」
彼女が呼ぶ。律が、その前に立ちはだかった白い花弁のカーテンを目測した。一瞬、彼の瞳孔が極端に絞られ、耳元のレコード針が、見えもしない盤に落とされたように、空気がひきつれる。
世界が、わずかに巻き戻る。
花弁が、散り始めの位置に戻る。しずくの足がホムラ石の床を蹴り直し、透真の弦がまだ一段目の軌道にある。その「もう一度」に、律は手を伸ばした。いつもなら、彼一人のための処理だ。誤差を自力で埋め、誰にも気づかれずに完璧を取り繕う。しかし、今回は違う。
「榊さん、十時方向、鐘楼を五ミリ緩めてください。しずく、二歩早く、左から三連。透真、そこ、弦を下に落として」
無線越しの短い指示が飛ぶ。律の声は低い。その低さには、ためらいが混じっていない。
花弁が、戻って、散り、同じ軌道を繰り返す。律のこめかみに薄い痛みが走る。景色が一瞬だけ滲む。鼻の中に鉄の匂い。彼は手の甲で拭って、息を整えた。
――見た。
透真が、三度、死ぬ未来を。静寂の刃に心臓の鼓動を切り取られて、倒れる。弦に絡まった白い茨が、胸を締め上げ、呼吸を止める。久世の指揮の一手で、無響の穴に足を取られ、そのまま落ちる。
彼は、自分の中で、秘密裏に処理してきた恐怖を、初めて言葉にした。
「一人じゃ、間に合わない。カバーを、頼む」
短い一言に、榊が応えた。「了解」。しずくは「任せて」と笑った。ほん