人形王子 第9話「第8章」
兵の足音が路地の奥から重く響いてきた。鉄靴の擦れる石畳、甲冑の金属音、そして命令を繰り返す声。レオンは息を詰め、握りしめた掌の中で小さな歯車を感じた。今、彼がしたいことは二つしかなかった。ニナを守ること。工房街の職人たちを一軒でも多く逃がすこと。妨げは規模の大きい徴発隊と、兵の前でまともな「願い」を口にすることができない人々の恐れだった。
兵の足音が路地の奥から重く響いてきた。鉄靴の擦れる石畳、甲冑の金属音、そして命令を繰り返す声。レオンは息を詰め、握りしめた掌の中で小さな歯車を感じた。今、彼がしたいことは二つしかなかった。ニナを守ること。工房街の職人たちを一軒でも多く逃がすこと。妨げは規模の大きい徴発隊と、兵の前でまともな「願い」を口にすることができない人々の恐れだった。
「ここから出るぞ、ジョリン。裏口から──」
ニナは、言葉は少ないが手際は良かった。作業着の袖をまくり、傷だらけの木箱を背に押しのける。彼女の指先には深い擦り傷があり、だが顔は無表情のまま。レオンはニナの無言の決意を見て、胸の中の何かが鋭く疼くのを押し殺した。
ジョリン──その男は小さな時計仕掛け人形を作る職人だった。半分できかけの仔人形を手に、奥の作業台にしがみつくようにしていた。徴発の手がもうすぐ彼らの前に押し寄せる。大きな木箱を運べる機械があれば、職人たちの逃げ道をふさいでいる石門を一時的に塞げる。レオンはそれを思いついた。
「ジョリンさん、その人形使わせてくれ。扉を押さえられるくらい動くはずだ」
レオンは低い声で頼んだ。能力の発動条件が頭の中でリピートされる。壊れた人形や自動機械に、所有者の一つの『言えなかった願い』を吹き込み、自律させる。願いは本人の言葉でなければならない。命令では動かない。嘘を重ねれば機械は停止する。短時間の自律しか与えられない代わりに、その瞬間に使用者が感じた痛みの一部を俺が引き受ける──その代償がいまにでも身体を縛る重石にもなる。
ジョリンの目が瞬き、彼の唇が震えた。作業台の角に固まった木屑の中に、彼の長年の後悔が埋まっているとレオンは感じた。ニナが細く息を吐き、彼の肩を軽く叩く。黙ってうなずく仕草は「頼む」と言っているようでもあった。
「──分かった。だが、一つだけ。ちゃんと言ってくれ。言えないことを、ここで言ってくれ」
レオンは言葉を選んだ。嘘を増やさないために、誠実さと迅速さが必要だ。ジョリンは唇を噛んで、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……壊れたままでいい。もう作れないままでいい。だが、どうか、──この店を、守ってくれ」
その声は震えていた。声の先にあるのは、店を守れなかった過去の自責と、家族を守れなかった痛みだった。レオンはそれを感じ取ると同時に、鼻腔の奥で何か酸っぱいものが浮くのを覚えた。ジョリンの痛みが、短い閃光のように脳裏をかすめ、胸の奥に広がる。使う代償だ。いつもより重い。レオンは唇を噛み、こらえる。
「それでいい。お願いはそれだけでいい。動け、とは言わない。自分の望みで動いてくれ」
レオンは仔人形の頭部に手をかざした。冷えた金属と砕けた木片の感触。先ほどの代償の痛みが冷や水のように波打つ。だが、慎重に重みをかけると、内部の歯車が微かに鳴り、一瞬だけ微動だにした。
仔人形の瞳の部分が薄く光った。ジョリンの言葉を受け取った機械は、ゆっくりと腕を伸ばし、脚を踏み出した。板張りの床の上を、ぎこちないが確かに歩いた。人形は巾木にぶつかりながらも、指先で重たい木箱に触れ、懸命に押し始める。小さな肩が上下し、木箱は軋みながらも門の方へと滑り出していった。
「いい、動いてる……!」
ニナの声に、周囲の空気が一瞬明るくなった。職人たちの目に希望の火が灯る。しかし、その直後、路地の入り口で一段と大きな声が上がった。
「そこでなにをしている──! 止まれ!」
徴発隊の先頭が、いつの間にかすぐそこに迫っていた。銀色の甲冑の間から、木の葉のように散る黒い布が見える。兵たちの一人、細身の若い将校が前に出て、あごの下から口元にかけて黒布で覆っていた。布の縁に小さな金具が光る。覆われた口からは命令だけがよく通るが、他の声は吸い取られるように小さくなっていた。
ジョリンの視線が、兵の口元へ蹲る金具へ零れた。瞬間、彼の肩がガクンと震える。上気した顔に薄い汗が玉になる。
「こ、これは……俺の人形は、──売ったはずだ。すでに王に渡したはずだ。ほら、そうだろう、お前らに渡したのだ──」
ジョリンの言葉は淀んでいたが、外向けには明確な嘘だった。売ったはずだ、という声が路地に響き、兵の一人が手を伸ばした。言葉は、自分を守ろうとする本能から吐かれたものだった。だがその嘘が、機械にどんな影響を与えるのか、ジョリン自身はわかっていない。
その瞬間、仔人形の歯車が一拍だけ引っかかる音を立てた。レオンの胸に鋭い衝撃が走る。ジョリンの嘘の重さが、波紋のように機械の内部へ響き渡ったのだ。自律の維持は、使った者の誠実さに依存している。嘘を重ねれば重ねるほど、動力は失われる。
「だめだ、止まるな──!」
レオンは手を伸ばした。だがその前に、別の悲鳴が上がる。ニナが突然崩れ、路地の端に倒れこんだのだ。兵が押し寄せてきて、銃床を弾に押し当てた。木屑と塵が舞い、誰かが叫び声を上げる。ニナの顔色は蒼白で、唇に血がにじんでいた。どうやら角材が倒れ、彼女はその下敷きになったらしい。彼女の手がわずかに震えている。ここで放ってはおけない。
「ニナ!」
レオンは駆け寄りたい気持ちを抑え、必死で観察した。仔人形はゆっくりと動きを止め、指先が木箱から離れた。小さな胸いっぱいに空気を吸ったまま、一つの歯車が止まってしまったように、機械は無言で立ち尽くした。
レオンは吐き気を催す瞬間、ジョリンの心の波を受け取った。そこには、十年分の怯えと恥が、兵を前にして血のように濃く流れていた。彼は娘を病に折り、家を守れなかったことを思っていた。守りたいという願いの核は真実であるにも関わらず、現実に向き合ったときの嘘でその力は削がれた。レオンの膝がぐらりと震える。代償の痛みが、彼の耳鳴りを増幅させた。
「動けよ! 頼む、もう一度!」
ジョリンが手を差し伸べ、絞り出すように叫ぶ。だが兵は眉根をひそめ、ジョリンを押しのける。徴発隊の若い将校が腕を伸ばして、仔人形の頭にある細い真鍮の柄を掴んだ。金具の感触が兵の指先に冷たく触れた瞬間、布で覆われた彼の口元から出たのは、低く、鋭い声だった。
「これも徴発物だ。持ち主は逃げ出した。没収する」
その言葉は事実かもしれない。だがジョリンは先ほどの嘘を取り繕うために別な嘘を重ねた。嘘が嘘を呼び、機械はそこにあるすべての偽りを内側で計りながら、減速していく。レオンはそれを止める術を持たなかった。能力は意志の強さでも、速さでもない。誠実な声だけが、歯車の潤滑油のように働くのだ。
「離せ!」ニナの声が、枯れたように上がった。彼女は歯を食いしばりながら片手を伸ばし、レオンの腕を掴もうとする。だが力が入らない。彼女の顔に血が滲み、頭をかすかに振る。石畳に落ちた刃物が、淡い光を反射した。
レオンは選択を迫られた。ここで自分が直接ニナを抱えて逃げるか、あるいは別の器具を使って一時的に運ぶか。彼にはもう一つの道具があった。裏手に放置された清掃用ゴーレムの残骸。大きく、錆びついた鋼の胴体は、起動すれば人を担げるだろう。だがゴーレムは王宮製のもので、誰の願いが込められているか不明だ。使うには、持ち主の本心を引き出さねばならない──そして今の状況で、持