天気屋 第7話「第6章」
朝の尾根は冷たく、風はまだ眠っている。アオは崖の縁で空を撫でるように見上げ、雲の層がどこで切れ、どこで厚く重なるかを指先で数えるようにしていた。彼の隣でミツが小さな鉄器箱を開け、ぬれた石に触れるように指先を伸ばす。ダンは背負い袋の紐をぎゅっと締め直し、エナは草に座って師匠の予報帳を取り出してはページを撫でた。
朝の尾根は冷たく、風はまだ眠っている。アオは崖の縁で空を撫でるように見上げ、雲の層がどこで切れ、どこで厚く重なるかを指先で数えるようにしていた。彼の隣でミツが小さな鉄器箱を開け、ぬれた石に触れるように指先を伸ばす。ダンは背負い袋の紐をぎゅっと締め直し、エナは草に座って師匠の予報帳を取り出してはページを撫でた。
「今日中に峠を越えられれば、二谷へは夕方だ。そこで塔の様子を見たい」アオは言った。言葉に迷いはないが、目はすぐにミツの方に行く。ミツは雷を集めるための素手作業をしながら、口だけで返事した。
「雷の具合も悪くない。塔の発電が止まっているなら、私の力で補えるかもしれない。でも、あんた、あの――無理はするなよ。顔色が見えにくいって、まだ続いてるだろ?」
アオはすぐには答えられなかった。数日前に彼が眠りを差し出してまで書き換えた空は、谷の人々の時間を稼いだ代わりに、彼の目を少しずつ変えていた。色が薄れていく、という感覚。赤と青の境目がぼやけ、肌の微かな紅潮を読み取るのが難しくなっている。ミツの指摘は、彼には実際に見えていない色の淡い痕跡を代わりに言葉で教えてくれているようだった。
「大丈夫だ。まだ話せるし、判断はできる」アオは言った。それは半分は真実で、半分は自分への言い聞かせだ。眠りを取り戻す余裕はない。七日後の白嵐は刻一刻と近づいている。彼は三つの谷を守ると誓った。師匠の予報帳の行方も気になっている。だが、いま最も必要なのは目立たぬことだった。目立てば、王都の目がこちらに向く。
峠道を下り始めたとき、稜線の向こうから揃いの鉤型の旗を立てた一隊が現れた。金属の鎧ではなく布の軽い装備。地元の猟兵とも違う、一見して「王都の者だ」と分かる制服。先頭の男は肩章に小さな石の意匠を着け、腰には短い槍を下げている。彼らは村落に向かう遊牧路の分岐を監視しているらしかった。
ミツが小声で言う。「王都の偵察隊か。早いな。こんな村まで下りてくるとは思わなかった」
ダンは顔をしかめた。「撤去とか、無料でやってくれればいいが……余計な圧力をかけてくるだけだ」
エナは手帳を閉じ、小さな声で付け加えた。「師匠が最後に話していた『上からの介入』って、こういうことだったのかもしれない。見張りが増えて、観測を止めさせる。あの風見鶏の色の話も、通じてくるかもしれない」
アオはそのとき、心の中で二つの欲望がぶつかるのを感じた。ひとつは、空に一枚の天気図を描いて、偵察隊の目を逸らし、峠の小さな吹雪を弱めて無事に通すこと。もうひとつは、目立たないまま彼らの動機を見極めることだった。前者はすぐに効果があるが、描けばその地域の天候が固定される。固定された未来は、後で修正するには彼が睡眠を差し出さねばならない。睡眠は既に不足している。しかも、睡眠を差し出すごとに彼は顔色を見分けにくくなる。
「今、描くのはまずい」アオは心の中でつぶやいた。声には出さない。彼らはまだ通報する気配はない。挑発しない方が得策だ。目立って助けを示すより、情報を得てから動く。そう決めて、アオはただ背を伸ばして深呼吸をした。冬の匂いが鼻腔を刺した。
偵察隊が近づくと、先頭の男が鋭い目をこちらへ向けた。アオは目が合ったと思ったが、色が分かりにくいぶん表情の読み違えを恐れた。彼は口角の動きと首筋の緊張、呼吸の速さを注視する。顔色は読めない。しかし、それだけでも大抵の意図は見える。
「陽気な旅人か、それとも商人か」先頭の男が大声で呼んだ。声は澄んでいて、訓練された冷たさがある。周囲の者が腰を伸ばし、視線をこちらに合わせる。
ダンが先に歩み寄った。足取りはゆったりとしているが、軍人のそれだ。彼は地図を嫌い、戦場を足で覚える男だが、その場に立つと兵の顔になる。ダンは軽く頭を下げて答えた。「通行している者だ。用件は?」
先頭の男はダンのまっすぐな態度を嗜めるように見て、冷たい笑みを浮かべた。「こちらは王都の気象監督部。下の方で『神罰』だの『災厄だの』と騒ぐ村があると聞いてな。移住を促すように、下々の者たちを説得してほしいという命が下っている。こちらの名は──グラムと申す」
その名が空気に落ちた。アオの内側で何かがぴんと張る。グラム。気象大臣の名を、ここで聞くとは思わなかった。声に出てくると、なぜか重みがある。グラムという名は、王都の高位を指すだけでなく、制度の力を感じさせた。
ミツが小さく舌打ちをした。エナの指がむずむずと震える。ダンは一瞬だけ目を細め、しかし表情を変えずに言った。「ここは我々の通過路だ。説得なら村へ行ってやってくれ。通行人をつかまえて説得するのは筋が違う」
先頭の男──グラムは肩をすくめた。「筋だの何だの言うが、我々の務めは住民の安全を守ることにある。白嵐は神罰だ。避けるべきことではない。移住こそが——」
「神罰、ねえ」エナがすぐに口を挟んだ。「人の言う『神罰』は、たいてい人の仕組みで動かされてる。あなた方がここへ来る理由はそれだけじゃないはずだ。観測を止めれば、村人は——」
グラムはエナを横目で見て、わずかにあざけるように笑った。「観測? その観測塔は古びているし、地方の迷信を煽る道具に過ぎない。王都は科学的な判断を下している。あなた方のような——予報師がどれほど正確か、過去の記録を見れば分かるだろう」
アオはしゃくり上げるような感情を押しとどめた。師匠の予報帳。改竄された記録。白紙にされた七日目。すべてがここへ繋がってくる。だが、わめき散らしても望む答えは得られない。彼はあえて柔らかい声で言った。
「実際に見ればわかります。観測塔のデータは、塔が動いていれば誰でも見られる。ここで騒ぐより、塔を見に行きませんか?」
グラムはその提案に一瞬だけ目を細めた。情報を引き出されるかもしれないと警戒している。彼は気象監督を自負する者だ。だが、取材と現場確認は良い口実だ。やがて彼は肩をすくめた。「いいだろう。だが村の者にはこちらから説明する。干渉はしない。通りの者よ、さっさと通れ」
通れ──その命令は微妙な類いの許可だった。相手にとっての一線は守られた。アオたちはその言葉を飲み込み、峠を行く振りをして、一列に並んで道を進んだ。偵察隊は後ろについてきた。視線は底にある街道へ向かい、時折背後を振り返る。
「グラムって、前にも聞いたことある名前だな……」ダンが低く言った。皮肉な含みがある。
「王都の地位のある人間が、自分たちのやり方を正当化するために『天罰』という言葉を使う。これは古い手だ」ミツが付け加えた。「でも、怪しいのは言葉だけじゃない。君たちが見張るってことは、何かを隠す理由がある」
エナは眉を寄せ、師匠の予報帳を胸に抱えなおした。「師匠は塔の記録を大事にしていた。もし王都が観測を止めさせるつもりなら、それは観測で明らかになることを恐れているからかもしれない」
アオは黙って聞きながら、心の中で方向を定めた。彼の最初の役割は避難の時間を作ることだった。しかし、今はそれ以前に、なぜ白嵐が「神罰」とされるのか、その構図を知る必要がある。正面衝突は避けるべきだ。だが情報を得るためには接触が必要だ。
偵察隊が道端の小さな村