天気屋

天気屋 第6話「第5章」

夜風が谷を撫でる。小さな宿の縁側で、アオは指先で空にひとつだけ描いた図を見上げていた。青黒い絵の具を拭ったような線が、月光に薄く光る。昨日描いた「明日の天気図」だ。図の右端に丸く囲われた村――避難を促した第一の谷――は、今夜も静かに眠っているはずだ。アオはそれを確かめるために空を読んだ。雲の分厚さ、遠くで鳴る氷の裂ける音、林の向こうで蠢く気配。どれも予報帳には書かれていない、生身の観測だ。

夜風が谷を撫でる。小さな宿の縁側で、アオは指先で空にひとつだけ描いた図を見上げていた。青黒い絵の具を拭ったような線が、月光に薄く光る。昨日描いた「明日の天気図」だ。図の右端に丸く囲われた村――避難を促した第一の谷――は、今夜も静かに眠っているはずだ。アオはそれを確かめるために空を読んだ。雲の分厚さ、遠くで鳴る氷の裂ける音、林の向こうで蠢く気配。どれも予報帳には書かれていない、生身の観測だ。

「アオ!」

声は縁側の石段を駆け上がる音と一緒に響いた。呼んだのはエナだ。胸に風避けの布を巻きつけ、手には泥のついた巻物の端を握っている。師匠の娘――というより、師匠の残したものを巡る行動隊長の顔をしていた。彼女の目は冷たく、しかし決意に満ちている。アオはふと自分の手元を確かめた。指先に、昨夜眠らずに書き換えたあとの軽い震えが残っている。

「来てくれたんだな、エナ。どうしてここに?」

エナは息を吐く。吐くたびに、谷の匂いが混じる。薪の焚き方、羊の体温、遠い岩場の湿り気。アオはそれを感じ取ろうとしたが、顔の色が区別しにくい自分の視界が邪魔をした。エナの頬は、本来ならば紅色に染まっているはずだ。だがアオにはそれが薄く、灰色がかった一枚の布に見える。

「父の巻物のことよ。手がかりがあるって聞いた。お前の師匠が持っていた予報帳、断片だけど――」彼女は巻物の端をめくる。そこには押し流されたように濡れた紙の一片が縛られていた。墨の薄い記号と、見慣れた風見鶏の図。だがその先に空いた白い余白がある。白紙の七日目だ。

アオの心臓が締め付けられる。あの白紙は、師匠が残した最後の意味のない余白だと――序章で見たときからずっと胸の奥でざらついていた疑問が、またむくりと顔を出す。

「どこで見つけたんだ?」アオは聞く。顔の色が読み取れない分、口元の緊張や肩の落ち具合に頼るしかない。

「北の交易所。荷車の底から出てきたらしい。持ち主の商人は『王都へ送るつもりだった』って言ってた。だけど――紙が部分的に破られている。何かに揉まれた跡がある。あなたの師匠の筆跡に似てたから、私が追ってきた」

エナの声は乾いている。そこには怒りも悲しみも混ざっているが、アオにはそれらの色が重なって灰色の帯のように見えた。彼の心の中で、代償の影が冷たく伸びる。眠らずに何度も書き換えれば、こうして人の表情が判別しにくくなる。昨日の代償が今日の理解を奪っている。だが理解が奪われるほどに、アオは言葉で補わなければならなかった。

「王都、か」アオは小さく息を吐いた。王都は遠い。──しかし、予報帳に何か真実があるのなら、見つけなければならない。白嵐のこと、師匠が消えたときのこと、全部繋がっているはずだ。エナの指先が巻物の破片を押しつけるようにして見せる。そこに書かれた数行は、濡れた筆跡で断片的にしか読めないが、「観測塔」「停止」「色のない風見鶏」という語だけははっきりと読めた。

「師匠は観測塔の記録も取ってた。塔が止まった時刻、旗の色の記録。最後に書いていたのは『白紙』って。七日目の欄だけ白紙にして、何も描かなかったって。どうしてだろうと思って――」エナは言葉を切る。指先が少し震えた。巻物の端が彼女の手の中で紙鳴りする。

アオは空を見上げる。彼の能力は一枚の図を描くことができる。それで時間を作り、避難路を確保して人を動かしてきた。だがそれはいつだって「固定」だった。描いた地域の天候が固定され、書き換えは自分の睡眠を差し出すことで可能になる。何度も書き換えた昨夜の代償は、確かに彼の内側を少しずつ削っていった。顔の色がわからなくなるというのは、表情を読み取る彼の仕事にとって最も厄介な代償だ。

「白紙……」アオは小さくつぶやいた。「白紙は、固定しないって意味かもしれない。あるいは……何かに取り除かれた痕跡だ。どちらにしても、もしそれが王都へ向かっているなら、見つけなきゃならない」

エナはアオをじっと見た。彼女の目には疲労が刻まれているが、同時に誰にも渡せない決意がある。師匠のことを、ただの過去の名前としてではなく、今進行形の問題として抱えているのは彼女自身だ。アオはそのことを無理に押し付けられた使命のように受け止める気はなかった。仲間は道具ではない。エナは自分の意思でここにいる。

「私一人じゃ届かない。王都へ行くには情報と足がいる。あなたの観測の力は、間違いなく役に立つ。だけど――」彼女は言葉を切る。アオの顔を見ようとして、やめた。彼女も色を読み取れないのを察したのかもしれない。「代償は知ってる。父から聞いた。眠らずに予報を変えると、顔の色がわからなくなるって。自分を壊す覚悟があるなら、協力する。でも、無理はしないで。父の巻物を取り戻すのは私の問題でもあるから」

アオの胸に湧いたのは、奇妙な安心感だった。エナは自分の意思で条件を出した。自分たちは同じ目的を持ちつつ、それぞれの責任で動く。仲間は道具ではないということが、言葉になって今確かに成立した。

「無理はするつもりはない。でも、君の知っていることは全部欲しい」アオは答える。言葉を交わすうちに、彼の内側で何かがすくっと立ち上がる。代償を払わずに済むなら払いたくはないが、必要ならば眠りを差し出す。だがそれは最後の最後の手段だ。仲間と共有する時間を作るために、彼は予報で時間だけを切り取る役割を自分に課したいと思っていた。

エナは巻物の破片をしまい、立ち上がる。旅仕度はもう済んでいるらしい。靴紐を引き締めるその仕草が、かつての師匠の、それこそ風見鶏を磨く手のように見えた。アオはその姿に師匠を重ね、胸の後ろがきゅうと鳴る。彼は思い出す。師匠が空を描くとき、いつも最後に風見鶏を指でなぞっていたことを。色のない風見鶏を。

「まずは交易所に行って話を聞く。商人は王都へ送るって言ってたけど、途中で誰かに渡したかもしれない。手掛かりは断片だけ。王都のどの機関が興味を持ったか、それを当たる必要がある」エナが先に言った。計画の立て方が軍の下働きをしてきた女のそれだ。具体的で、冷静で、無駄がない。

「それと」彼女は一歩寄ってきて、アオの肩に手を置いた。「あなたが眠りを差し出すなら、その代償を一緒に見ていく。私も見つめる。壊れるのを一人で耐えさせはしない」

アオは言葉に詰まった。彼女の手の重さは、簡単な約束ではない。それは共犯のようでもあり、友情のようでもある。彼の中で、眠らずに何度も空を書き換えた夜の記憶がひりつく。夜が白むまで空を描き続け、翌朝には目の前の人の顔がただの陰影に見えたあの感覚。だが今は共同戦線を張る決意が胸の中で膨らむ。

「わかった。行こう、エナ。まずは交易所と、その周辺の商人達。誰が巻物を王都に送ったのか、辿る。あと、師匠が観測塔の記録を取ってた——塔が止まった痕跡があるなら、そこも見に行きたい。塔には風見鶏があるはずだ。色が落ちているかもしれない」

エナは頷いた。その瞳の色は、アオには濁って見えたが、彼は声の力を頼りにした。「塔の色を取り戻すことができれば、観測停止の証拠にもなる。王都の圧力があったとすれば、それを見せれば住民は動くかもしれない」

夜の風が二人の間を通り抜ける。