天気屋 第5話「第4章」
雪は昼を前に音を消した。谷の向こうの稜線で吐かれた白が、押し固められた雲となってゆっくりと下りてくる。アオは木の柵にもたれ、凍てつく風を顔に受けながら、手袋に埋めた指先で空をなぞるようにしていた。やりたいことはただひとつ──村の人たちに避難の時間を渡すことだ。しかし目の前には、予報が信じられないという顔、何日も続く雪の準備に疲れた身体、そして「予報は裏切る」という古い怒りがあった。
雪は昼を前に音を消した。谷の向こうの稜線で吐かれた白が、押し固められた雲となってゆっくりと下りてくる。アオは木の柵にもたれ、凍てつく風を顔に受けながら、手袋に埋めた指先で空をなぞるようにしていた。やりたいことはただひとつ──村の人たちに避難の時間を渡すことだ。しかし目の前には、予報が信じられないという顔、何日も続く雪の準備に疲れた身体、そして「予報は裏切る」という古い怒りがあった。
「アオ、あの子のところ行ってくれないか。足首を捻ってるみたいで、動けないって」ミツの声が雪に吸われ、近くの倉の陰から響く。彼女はまだ、肩に小さな金属の缶を抱えたまま立っていた。缶の中は雷を引き寄せるための導体だ。ミツはいつもそうして雷を集め、観測器の代替動力にする。今日もいつものように笑っているが、瞳の端に緊張が走っていた。
ダンは腕を組んで、村のメインストリートを見下ろしている。彼の顔は冷えて赤く、帽子が深くかぶられていた。地図嫌いを自称する兵士だが、危険箇所の目星だけは確かだ。アオはダンを見ると、言葉を選ばずに歩み寄った。
「ここから、雪の塊が落ちる。崖の上の雪庇が……」ダンは短く言った。視線の先、北の小尾根に、昨日までなかった亀裂が一本走っていた。風が裂け目に吹き込み、細かな粉雪を吐き出す。そこは人が通る獣道ではない。だが家畜の通り道に近い。
アオは息を吸った。手のひらの中が冷たい。空に一枚だけ描ける「明日の天気図」が、今ここでどう働くか。彼は前に誓った。能力は盗仰のようなものではなく、使えば代償がある。使い方を慎重にすると。だが「慎重」と「何もしない」は違う。
「今日、ここに残る人はいる?」
羊飼いの家族を探すと、斜面の小さな家の中から老婆が出てきて、頑なに扉を固く閉めた。白い手で簾を掴み、じっとアオを見据える。彼女の顔には、かつての大雪で家を失った傷が刻まれている。目線にはいつもの怒りの色──信用を奪われた者の深さがある。アオはその色を、いつもより慎重に見ようとしていた。
「アオの予報って、何度裏切られたことか。あんた、今までどれだけ時間くれた? 私たちの羊は死んだし、屋根も壊れた。予報で避難させるって、また私たちの生活を犠牲にするだけじゃないのか?」老婆の言葉は凍った空気のように鋭かった。アオは答えを持たなかった。持つべきは言葉と事実、そして時間。言葉だけでは人は動かない、彼はそれを知っている。
雪煙が谷底から上がる。最初の音は遠かったが、徐々に低く、地面を揺らすような音に変わる。誰かが叫んだ。振り返ると、集会所前の広場に急いで集まってきた人たちの中に、羊飼いの若い息子が膝を抱えて座っている。足元には崩れた柵と、伏せた羊のまなざし。幼い顔が震えていた。
「アオ、どうするんだ!」ダンが叫ぶ。ミツはバケツを握りしめ、缶を地面に置いたまま震えている。短い間合いで、村のすべてがアオを見ていた。彼は空を見上げた。雲は低く、しかしそこに描く「明日の天気図」はひとつの約束でしかない。予報は現実を変えない。ただ、時間をくれる。避難の時間──それを作らなければ、確実にもっと多くが失われる。
アオは胸の中で何度か息を整え、口を開いた。「ここを安全だと書く。小さな窪みと尾根を『短時間は風下に持つ』にする。そうすれば、今日の昼から夕方にかけての大雪の到来がずれるはずだ。今すぐ避難を始めてくれ。ダン、外の危険箇所にはロープを張ってくれ。ミツ、観測器が動かないときの合図を決めて。時間は四時間だ。四時間あれば、もっと多くの家が最低限の備えを整えられる。」
言葉は淡くても、行動を伴っていた。ダンは即座に動き、兵としての指示を低く効率よく出す。ミツは頷き、金属缶を持ち直して脇に立つ。だが老婆はまだ動かない。アオは彼女に向かって小さく一歩近づき、声を落とした。「嘘をつくつもりはない。時間を作るだけだ。全部は守れないかもしれない。でも、この四時間で逃げられるだけの人は増える。僕は―僕は眠らないでこれを書き換える。代償がある。だけど、今はそれを払うつもりだ。」
老婆の唇が動いた。怒りと恐れの色が交差する顔を、アオは見た。彼の選択は言葉ではなく、眠らずに書き換えるという行為で示された。眠りを差し出す行為は、誰にも見えない。だがその意思は雪の音を割って伝わった。老婆の目がゆっくりと伝わり、最後に小さくうなずいた。
アオは外に出た。冷気が肺を刺す。空は鉛色のキャンバスだ。彼は掌を空に掲げ、息を吐いてから指先で円を描き始める。天気図は線ではない。彼が空に描くと、それは薄い霧のように浮かび上がり、次第に気圧線や前線、予想される降雪域の斜線が結ばれていく。描かれた部分は「明日の天気」として固定される。だが、今彼が描くのは「今日から数時間の挙動」の修正だ。通常は一回の天気図で一日の予報を固定するが、「書き換える」ことを選べば、それは新しい予報に上書きされる。上書きの代償は眠りの放棄だ。
手が冷え、震えが混じる。空に描かれた線はいつものより歪んで見えた。アオは睡眠を失うことによる自分の身体の反応を思い出す。前に一度だけ上書きしたとき、彼は夜を徹して空を描き、翌朝の色の違いに気づいた。だがそのときはまだ軽い。今回は違う。今日はもっと多くの人の命がかかっている。彼は自分の魂の中で何かを秤にかけ、そして片端を下に傾けた。
「これで行く」彼は短く呟き、描きかけの天気図を指でなぞる。線がふっと固定され、風の流れが変わって見えた。遠く、尾根の亀裂に走っていた裂け目の雪の動きが少し遅くなったように見える。時間が生まれた。
村は慌ただしく動き出した。ロープが張られ、羊は追われ、屋根の上の金具が外され、子供たちは毛布を抱えて家の中から引っ張り出された。ダンは冷酷に命令を出し、彼の嫌いな「地図」という言葉を一つも口にしないまま、避難のルートを体で作っていった。ミツは街灯代わりに金属缶を地面に置き、短い金属の音で「機能してる」のサインを出す。人々は行動し始めた。言葉は少なく、動作がすべてを伝えた。
だが雪は自然だ。固定した予報が「到来を遅らせる」ことはあっても、雪塊そのものを消すことはできない。昼過ぎ、尾根の一部が唐突に崩れ、鈍い轟音とともに雪の壁が谷を這い降りた。避難は間に合って、多くの命は救われた。だが古い納屋は押しつぶされ、数頭の羊が埋まった。小さな家屋の屋根が一部が落ち、子供が一人、足を挟まれて涙を流していた。アオは走って駆け寄った。彼の胸は深く突かれたように痛む。
「ごめん、全部は守れなかった」アオは言った。自分の言葉に自分で嘘を感じながら、手を差し出す。ミツがすぐに刃物を取り出し、ダンも人を引き上げるのを手伝った。息子が羊の下から血の混じった雪とともに引き出される。泣き声が雪に飲まれ、やがて消える。アオの目の前で老婆がじっと立っている。顔を上げたその表情の色が、いつものように鮮やかに読めない。頬の赤みが、あるはずの場所で薄くぼやけているのだ。
「大丈夫か?」ミツが心配して隣りに来る。彼女の顔は冷たく赤い。だがアオにはミツの目の中の何か、緊張と安堵の交差する色が分かりづらくなっていた。人の表情を読むことは、彼にとって重要な観測