不死者の宿屋 第5話「第4章」
カイは、夜の帳を切るようにして戸口の梁に腕を預けたまま、静かに言った。「ここで、どうするか決めよう。」
カイは、夜の帳を切るようにして戸口の梁に腕を預けたまま、静かに言った。「ここで、どうするか決めよう。」
ベラは皿を一枚、慎重に洗い終えると、すすり泣くような声で答えた。「話せるといいけれど、彼女は—あの子の顔を忘れるかもしれない。前にも、似たようなことが起きたでしょう?」
アニカは革手袋の指先で鍵束を触りながら、冷たい視線を外に向けた。「忘れることと向き合うのは騎士の私でも難しい。戦場の死をどう扱うかは別の話だが、あそこには、忘れたくない人がいる。」
バロは玄関のたたきの上で丸くなり、年老いた犬の霊らしい薄い声で言った。「俺は帳を守る。だが、帳に空白が増えた日には、夜に追われる気がする。」
カイはその四人の顔を見回してから、短く息を吐いた。今やりたいことは明確だ。眠れぬ理由を具現化して、宿に預けられた鍵の部屋で一晩だけその夢景を立ち上げ、客がもう一度だけ声を交わせる時間をつくる。守る対象は宿に留まる不死者たちと、いつまでも待ち続ける街の人々。妨げは能力の制約――カイ自身は夢に入れず、同時に開けられる部屋は五つまで。何よりも、夢を壊せば客の大切な記憶まで薄れるという代償があった。
「彼女は、自分の息子に会いたがっている」とベラが言った。「息子は戦で死んで、ここで待っている。毎夜、門前の広場で灯をともしてるのを見かける人がいるわ。彼女は眠れない。鍵を預けてくれたのは昨夜よ。」
「条件は守る」とカイは低く告げた。「鍵を預けた部屋だけ。五つの上限は守る。私が中へは入れないことも忘れない。参加は全員の同意で、誰かの記憶を壊すリスクがあることは最初に伝える。だが、それでも彼女が望むなら、彼女の意向を優先する。」
アニカはすっと息を吐いた。腕組みを解き、長い髪を後ろへやる。「だったら手順を明示する。誰が見守るのか、どの物を抱えるのか、夢が崩れたときの対応──それも含めて本人と合意を取れ。」
カイはうなずき、ベラに向かって指示を出した。「客室は三階の南側、窓際の部屋だ。鍵は既に預かっている。バロ、客帳のページを開いておけ。名前の記入と同意の署名を確認する。」
バロは尻尾をひとつ振り、玄関の隅で濡れた革のページを咥えてくる。古い宿帳の頁が風をはらみ、白紙の一行がカイの目にじりじりと入った。空白は毎朝増えている。だが今は、それを説明する時間はない。今夜の対処が優先だ。
客は二階から静かに降りてきた。薄いショールに包まれ、顔は憔悴している。彼女はカイと目を合わせもせず、差し出した鍵を机にそっと置く。手が震えていた。
「名前は?」とベラが優しく問う。女の声はかすれ、名前を口にできないようだった。代わりに、指で胸のあたりを一度押さえた。そこにあるものを失う恐怖が、言葉を塞いでいた。
「マリナです」とやっとのことで漏らした。「息子は──ルクス。ここに……会わせてください。」
カイはそれを聞いて、胸が締めつけられるのを感じた。ルクスという名は、この町の戦記にちらりと出てくる一人だった。カイは、彼女の目に宿る渇望が、どれほど深いかを見抜いた。だからこそ、無闇に手を伸ばしてはいけない。どんなに正しいとしても、夢を壊してしまえば、マリナは息子の笑い方や顔すら忘れてしまうかもしれない。
「手順を説明する」とカイは言い、声を震わせないように努めた。「一、あなたの意志を文書で確認する。二、夢を構成するために一つだけ“記憶の核”を預かる。写真や手紙でもいい。三、夜の間、扉の外で見守る者を一人選ぶ。四、万一夢が不安定になった場合は必ず中断すること。中断=記憶の薄れのリスクがある。了承してもらえるか?」
マリナは手に持ったショールの端をぎゅっと握りしめて、ゆっくりとうなずいた。言葉は震えたが、意志は確かだった。「承知しました。忘れるなら、忘れるのも……でも、一度でいい。たった一度でいいから声を聞きたい。」
ベラが膝をつき、顔を近づけて小声で言った。「必要なら、あなたの言葉を一つずつ繰り返してくれる人を置きましょう。声の記憶を持たせておくことで、少しは安定させられるかもしれない。」
アニカは腕を組み直し、睨みつけるようにして付け加えた。「だが、これ以上は賭けだ。夢が他の客や、この宿に滞在する不死者の記憶に干渉することもある。今夜は近隣の部屋を空ける。我々は三人で監視をつとめる。バロ、帳には必ずこれを記録すること。」
バロは低くうなり、ページに太い肉球の跡のように文字を書いた。記録すること。それはバロにとって、宿の秩序を守ることでもあった。だが彼の筆は震えている。
夜が深まるにつれ、五つの灯籠が一列に並べられた。カイは外から入れてもらった客の鍵を、枕元の皿に置かせた。ルールは明白だ。鍵を預けた部屋に限り、カイの能力は眠れぬ理由を夢の風景として具現化する。だがカイ自身はその中に入ることはできない。彼は具現化を起動する「傍観者」として、ただ観測しつつも、介入はできないのだ。
深夜零時になり、窓の外で広場の灯りが揺れる。カイは手を動かして、部屋の中の小さな儀式を始めた。床に細い白い線を一周描き、枕元の鍵の上に客が持ち込んだ「記憶の核」を置く。マリナは震える手でそれを差し出した。写真の隅に小さな息子の絵があった。幼いルクスの頬は泥だらけで、口元にいつも余る笑いの端が見える。カイはそれを見つめて、胸が燃えるように痛んだ。だが火は息を吸ってはならない。彼は冷静に、手順通りに灯をともした。
最初の夢景は静かに立ち上がった。部屋の空気がひんやりと変わり、枕元の写真からは柔らかな光が滲み出す。壁に映るのは、広場の夕暮れ。少年が泥だらけで駆け回る声、鍛冶屋の鈴の音、母の呼ぶ声が重なる。夢は穏やかな、小さな幸せだった。マリナの目は閉じられ、まるで本当にそこにいるかのように指を伸ばす。彼女の頬はほころび、唇からは笑いが漏れた。
だが具現化は脆い。隣の部屋の静けさが乱れた瞬間、空気がざわついた。廊下で誰かがドアを乱暴に閉めた。小さな振動が床を伝わり、夢の輪郭が揺らいだ。柳の葉のように形が崩れ、光が裂けた。マリナは目を見開き、そして――
「あれ?」と、彼女は呟いた。きつかったはずの心の痛みが、どこか遠くなっている。顔をしかめ、息子の名前を呼びかけようとして、喉から出たのは別の言葉だった。「あの、彼の……あの……」
マリナの手が写真に触れ、そこに描かれた笑顔をなぞる。しかしその指先には、かつて確かにあったはずの温度が掻き消されていくのを、カイは見た。彼女の目に宿っていた細かい記憶の粒子が、夢の崩壊とともに溶けていく。笑い声の具体的な輪郭、息子の匂い、彼が好きだった石の色――それらが薄れて、代わりに漠然とした「愛しい人がいた」という感触だけが残る。
「夢が崩れた」とベラが叫んだ。声は必死で、手を伸ばしてマリナの肩に触れた。ベラの掌の温度が、記憶の薄れを止めることはできなかった。カイは胸を締めつけられ、無力を思い知る。できることは停止命令を出して、夢の活動を切ることだけだった。しかし切れば切るほど、記憶は消える。崩れが中途ならば、それは破片を残して記憶を削ることになる。
アニカが飛び込んで、震える声で言った。「中断!すぐ