不死者の宿屋

不死者の宿屋 第6話「第5章」

夜の帳が深くなった頃、カイは宿の表へ出ている灯籠の半分をぎりぎりまで絞り、通りに溶け込むように座っていた。やるべきことははっきりしている。宿を知られずに守ること。知られると、ここにいる名のない者たち――外へ出られぬ“不死者”たち――が、人間の手に奪われかねない。奪われれば、彼らは戦場の延長線に並べられる。兵器のように運用される。カイはそれを何よりも恐れていた。

夜の帳が深くなった頃、カイは宿の表へ出ている灯籠の半分をぎりぎりまで絞り、通りに溶け込むように座っていた。やるべきことははっきりしている。宿を知られずに守ること。知られると、ここにいる名のない者たち――外へ出られぬ“不死者”たち――が、人間の手に奪われかねない。奪われれば、彼らは戦場の延長線に並べられる。兵器のように運用される。カイはそれを何よりも恐れていた。

「また来るかもしれないね、あの臭い鉄の軍服を着た手合いが」
ベラが背中をぱたぱたと扇ぎながら、低い声で呟いた。給仕長の手は静かに、皿を重ねる音だけを残す。ベラの眼は夜の闇でもよく利き、軍服の形や徽章の擦れ具合でどの師団かを読み取る。今夜のは偵察小隊だというのが、彼女の見立てだった。

「偵察だけならいい。だが『偵察』という名で地図をとり、印を打ち、やがて押し寄せる奴らだ。司令官の名も聞いた。イグナ、とか──」
ベラの顔に、わずかにこわばりが走る。床を這うように近づいて来た老犬霊のバロが、鼻先でカイの膝を突いた。バロは客帳を守る番頭役で、襟足に白い毛が残るだけの年寄りではあるが、嗅覚は衰えていない。彼は鼻をぴくっとさせて、遠くの風を確かめた。

「俺たちがやることは変わらないよ。知られずに、出来るだけ多くのことを見て、町の人に知らせる。衝突は避ける。ここを閉じるわけにはいかないから」
カイは自分に言い聞かせるように、声を絞った。宿の扉はまだ開いている。客の鍵が幾つあるか、今日の帳面をぱらりと確認した。五つの鍵のうち、二つは今夜の使用中。見えないものに手を伸ばす特別な力を持つ彼にとって、鍵は契約であり、道具であり、責任だった。鍵を預けた者だけ、その部屋で眠れない理由が夢として一晩だけ具現化する──その代わり、宿主である自分は夢に入れない。他人の夢を操るようなことはできない。しかも同時に開けられるのは五室まで。夢が壊れれば、そこにある大切な記憶までも薄れていく。だからこそ、カイは無用の冒険を避けたかった。

夜更け近く、表の細道を三人の男が音を立てずに歩いてきた。軍服は泥に濡れ、肩章には見慣れない紋章の印。先頭の者が小さな灯りを掲げ、扉をノックする。ベラがすっと戸を開け、調理場から戻ったばかりの皿を抱えたまま顔を出した。彼女の態度は、いつものように怠りない。客を迎える給仕長としての顔がそこにある。

「こんな時間に通りの宿とはめずらしい。おや、外は冷えますよ。少し休んでいきませんか」
彼女の声は暖かく、だが余計な詮索はしない。男たちはむっとした表情を収め、入ってきた。飲み物を一杯出し、簡単な膳を差し出す。会話は小刻みに進み、軍人は初めこそ身構えていたが、酒が進むにつれて口を開いた。

「司令官の命令で、ここら一帯の『特殊事例』を洗い出している。南の辺境にある廃砦とか、呼ばれている──」
その言葉を聞いた瞬間、カイの胸が冷えた。イグナの名はまだ確かな物証で語られたわけではないが、風のうわさや町の噂に現れていた。今、直接軍関係者の口から出るとなると、噂は現実の動きへと変化する。カイは飲み物を一口含み、顔の表情を変えないように努めた。

「特殊事例、ねぇ……」ベラが相槌を打つ。彼女は客の目線をまっすぐに受け止め、しかし話の本筋へは踏み込まない。カイはその態度に感謝した。情報は引き出すべき時にしか聞き出してはいけない。あからさまな詮索は不信を招く。

そのとき、玄関の風鈴がかすかに鳴った。年老いた女が、杖をつきながらゆっくりと入ってきた。顔には深い皺があり、両手は震えている。彼女はまっすぐカイの方へ来ると、ぽつりとした声で言った。

「息子に会わせてほしいのです。戦で……還らぬ人に。鍵を預けます。あの子のところへ行けますか──一晩でいいのです、顔を見たいのです」

カイは見返した。女の手に握られているのは、古びた真鍮の小さな鍵だった。鍵の輪には小さな緋色の紐が結ばれている。宿のルールを知る者なら、鍵を預けることが眠れぬ理由を具現化する契約だと理解するはずだ。だがこの場所は危うい。軍人たちが同席している時間帯で、しかも彼らが「特殊事例」を探っているということは、鍵の存在そのものが不審に映る可能性がある。

「お名前を――」
カイが尋ねると、女は微笑んで、しかしなぜか名前は言わなかった。古い習わしか、あるいは彼女がそう望んだのか。宿帳に名が残らないと、誰もが気づかない。カイは女の手の震えを見つめ、思案する。

「条件がある。夢を作ることはできる。だが、俺は夢に入れない。聞こえるのは外側だけだ。ここには同時に開けられる部屋が五つまでで、今ふたつが使われている。もしその夢が外的な力で壊れたら、あなたが守り続けてきた記憶が薄れる可能性がある。それでもよいか」
カイははっきり告げた。言葉を濁すことはできない。嘘は人を救わない。

女はしばらく黙った。顔には迷いと決意が交錯していた。やがて小さく頷くと、鍵をカイに渡した。「忘れてもいい。息子の顔だけ、どうしても──一度だけでいい。」その言葉に、カイの胸が締め付けられる。忘却の代償。それを負わせるかもしれない。だが女の手の震えが、どれほど深い渇きを抱えているかを、カイは見て取っていた。

「よし、明日じゃない、今夜にしよう。だが安全を最優先する。外の者が見ている。騒ぎは避ける。あなたの意志を尊重する。もしも外からの干渉があれば、すぐに止める準備をする。ただし、完全に防げる保証はない」
カイは鍵を受け取り、古い箱の中へ静かに収めた。箱の中には今のところ、空きがいくつかあった。六番目の鍵が誰にも使われていないことが気になるが、それは後で考えるとして、今は女の望みに応えるしかない。

ベラとバロはすぐに手を動かす。バロはランプの火を少しだけ弱め、通りに漏れる光を減らした。ベラは女を部屋へ案内し、必要ならば途中で食事を出す。夜の作業は慣れているが、今夜は気配がちがった。軍人たちの視線が、いつまでも彼らから離れない。

座敷に入ると、女は小さな布を開き、古い写真のような紙きれを出した。戦服の青年の顔がそこにある。笑っているようにも、ぎこちないようにも見える、曖昧な表情だ。女は額にその写真を押しつけると、静かに立ち上がった。カイは布をそっと取り上げ、女の隣で手を触れずに見守る。彼女の指は鍵を置いた部屋の扉の横で止まった。これが始まりの場所だ。

カイは目を閉じる。能力には儀式も準備もいらない。ただ、鍵が預けられた瞬間、宿の内側から誰かの眠れない理由が夢として溢れだす。だが宿主は夢に入れない。彼は外側からその景色を眺める案内人に過ぎない。今夜はもう一つ神経を使う要素がある。軍が宿の周囲を偵察しているという事実だ。もし彼らが中を調べようとすれば、夢は外的な衝撃で簡単に揺らぎ、崩れる。夢の崩壊は記憶の喪失を呼ぶ。カイはそういう結果を避けたかった。

部屋の内の微細な空気が変わるのを、カイは感じた。夢が立ち上がる。女の記憶の風景が、畳の上に薄い煙のように浮かび上がる。風景は戦場のほの暗い空、焦げた草、そして若い兵士の影。女の息遣いが荒くなり、顔が歪んだ。彼女は紙の写真の中の青年に目を凝らすが、カイにはその顔の輪郭がはっきり見えな