不死者の宿屋 第4話「第3章」
夜の帳が宿屋の屋根に落ちると、カイはいつもの習慣で鍵箱の前に立った。指先で木目の溝をなぞる。鍵は六つ、だがそのうち五本だけが茶色い紐で結ばれ、ひとつ――古びた銅の輪のようなそれだけが薄く冷たい光を放っている。誰もその六番目を預けたがらない。今日もそうだろうと、カイは息を吐いた。
夜の帳が宿屋の屋根に落ちると、カイはいつもの習慣で鍵箱の前に立った。指先で木目の溝をなぞる。鍵は六つ、だがそのうち五本だけが茶色い紐で結ばれ、ひとつ――古びた銅の輪のようなそれだけが薄く冷たい光を放っている。誰もその六番目を預けたがらない。今日もそうだろうと、カイは息を吐いた。
「今夜は初めての正式な訪問者が来るだろう?」ベラが皿を拭きながら言った。ベラは不死者の給仕長で、人間のように動き、人間よりもずっと黙っている。震えることのない手つきで布巾を折る姿が、不思議と落ち着く。
「ええ。戦死者の息子さんだそうです。灯明祭の前に、父に言いたいことがあるって。」カイは鍵箱の蓋を閉じ、紐の結び目を点検する。能力を使う手順はすでに頭の中にあった。客が鍵を預ける。預けられた部屋に限り、その者が眠れない理由が夢の風景として具現化する。宿主は夢に入れない。壊すと記憶が薄れる。五室まで同時に開けられる――制約はいつだって操作の不利をつくる。
アニカは鍋の縁に肘をつけて、眉を寄せた。「現実の会話で済むなら、そっちを推すべきだと思う。夢で会うって、どうしても綱渡りになる。強制的に連れてくることは絶対しないでくれよ、カイ。」
「それは同意のために式をつくるって話でしょ?」ベラが静かに答える。「ここで会いたいという『願い』をまず確認する。背後で手続きを押し付けられたものじゃないと、灯が消える。」
「式次第の骨格は頭にある。順番、鍵の預け方、破綻が起きたときの対応。何より最初に参加者全員の同意を取る。」カイは短く言うと、客帳の上に手を置いた。客帳は今日も黒い革で、ページはぎゅっと詰まっている。だが時折、真っ白なページが何ページも続くことがあり、それがバロを刺激していた。老犬霊のバロは角の椅子で前足を折り、薄く笑うように顎を乗せていた。彼の目は紙の白さに吸い寄せられるように光る。
「バロ、証人を頼む」カイが言うと、バロは重い体を起こしてゆっくりと客帳の前に歩いた。霊とはいえ、バロは宿の記録を守る番犬だ。三角の耳がぴくりと動いて、ページを鼻先で押す。空白のページ――名の無いものの痕跡――を見せると、バロは唸った。
ドアの外で足音がした。来訪者の姿が影絵のように障子に映る。カイは鍵箱を閉め、黒いエプロンの紐を締めなおした。深呼吸。やるべきはただ一つ、会わせるための手続きをきちんと踏むことだ。
戸を開けると、暗がりの中に一組の影が立っていた。年老いた女と、その隣にいる若い男。若者は軍服の端切れをまだ着ているような乱れた外套を羽織り、手には小さな木箱を抱えていた。目は赤く、震えていたが気丈に立っている。
「こんばんは。いらっしゃいませ。カイと申します。ここでは一夜だけ、会いたい人と話すことができます。ただし規則があります。まずはお座りください。話を聞かせてください。」カイは手招きしながら、真摯に言葉を選んだ。宿の仕事をしていた時のせいだろうか、言葉が真っ直ぐに場を整える。
若者は一歩下がり、木箱をぎゅっと抱えた。「父さんに、謝りたいんです。戦地へ送ったのは俺で、…その、俺がもっと話していれば、って。会わせてください。どうしても、今日じゃなくちゃだめなんです。」
母らしい女がカイの袖をつかんで絞り出すように呟いた。「灯明祭の前に…あの人の声を一度だけ。夜に寝付けないのは、そのせいで。町の人たちに言われて、ここへ…」
カイは深く頷いて、鍵箱を取り出した。「まずここに鍵を預けてください。鍵を預けた人のためだけ、その部屋に夢が具現化します。夢は一晩限り。中に入ることは私にはできません。壊れた場合、記憶が薄くなることもあります。それでもいいですか?」
若者は震える手で木箱を差し出し、中から小さな鍵を取り出した。漆黒で、古びた形をしている。紐は赤い。カイはそれを両手で受け取り、向きを確かめると、鍵箱の空いた紐に結んだ。五つの枠のうちまだ空きはある。だがカイは、その六つ目を見ないようにして結んだ。客はそれを見て少し安堵した風に見えた。
「ここで合図を交わします。あなたは父さんに語りかけたいことを黙って心の中でまとめてください。相手が出てくるまで私は何も口を挟みません。出てきた彼に触れること、引き留めることはできません。交際は相互の同意が前提です。それから、もし夢が壊れたと感じたら、すぐに声をかけてください。私たちは消耗の痕跡を最小に留めるために、すぐに手順を止めます」
「記憶が薄れたら…どうなるんですか?」母親が震える声で訊ねる。
「その人が大切にしている細部――匂い、仕草、あるいは名前の呼び方の一部が、不確かになることがあります。完全に消えることは少ないですが、壊し方によっては戻らない場合もあります」カイは素直に言った。嘘はつけない。能力の代償を隠すと、後でより大きな代償を払うことになる。
母は一瞬固まったが、木箱を抱える若者の肩を掴んで深く息を吐いた。「それでも…会わせてください。最後に自分の口で…」
カイは首を振り、アニカとベラを見た。アニカは怒りにも似た表情を少し曇らせたが頷いた。ベラは布巾をしまって、ゆっくりと飲み物を用意し始める。「同意が取れている。私たちは介添えをします。忘却が起きたら、私が食事の匂いで結び直す。バロ、記録を頼む」
バロは低く唸り、鼻を客帳にこすりつけた。記録の番犬としての役目を果たすと、その嗅覚で人の名の残滓を嗅ぎ分ける。
手順は思ったよりも穏やかに動いた。若者は椅子に座り、母はその横に立ち、ベラが用意した薄い茶を口元に運んだ。ろうそくの灯が揺らめき、宿の部屋の奥の障子が、今夜の夢景が具現化する室と連なる。
「始めます」カイは小さな鈴を鳴らした。音は、耳に残る。鈴の音は境界を知らせ、来訪者たちの心を整える。鍵に紐を結んだ瞬間、静寂が深まった。部屋の隅がじんわりと滲み、空気が厚くなる。夢の入口は柔らかく開く。だが、カイは入れない。見守るしかない。
最初に現れたのは、古い麦畑の風景だった。夏の光が低く射し、揺れる葉の影が踊る。草の匂いがふわりと届き、座っている若者の顔は一瞬で緩んだ。彼の目には別の人物の輪郭が映る。そこにいるのは確かに父だった。戦服ではなく、当時の普段着。髪は少し白く、手にはパンを持っている。彼は座り、にこりと青年を見た。
母は口を押さえて、床に崩れ落ちた。ベラはそっと傍らに座り、手を差し伸べる。アニカは剣の柄に指をかけたまま、顔を伏せている。カイはいつもどおり、見張りのように部屋の出入り口に立ち、耳を凝らす。夢は具現化しながらも、何か彼方の音に揺れる。外の風ではない、誰かの足音。
「ゆっくり話してください」カイは若者に囁いた。口許で言葉を交わす。彼は震えながら、しかし確実に言葉を紡いだ。「父さん、…俺は、あの時逃げた。行かせたのは俺だ。ごめん。」
父の姿はじっと黙って、村祭りでいつも笑っていた顔を浮かべていた。時間はまったく別の軸で流れ、でも声や笑いの輪郭は精確だ。青年の言葉に父は答えた。短い、けれど懐かしい声で。「お前は悪くない。むしろ、よく生きているな。もっと酒を飲んで、たくさん泣け」そう言って、父は彼の肩を軽く叩いた。若者の目からは抑えき