不死者の宿屋 第3話「第2章」
夜の帳はまだ新しく、宿の木製の廊下を歩くと板と板の継ぎ目がきしむ音が小さく返ってきた。カイは手の中の小箱を指先で一度転がし、外から差し込む月光に鍵の輪が銀色にちらつくのを見た。今したいことはこれ以上ないほど明瞭だった──ここにいる誰も、昼のうちに抱えたまま眠れない理由を一夜で開いてやること。違う言葉なら、「灯明祭の前に手順を固め、誰もが安心してその夜を選べるようにすること」だ。
夜の帳はまだ新しく、宿の木製の廊下を歩くと板と板の継ぎ目がきしむ音が小さく返ってきた。カイは手の中の小箱を指先で一度転がし、外から差し込む月光に鍵の輪が銀色にちらつくのを見た。今したいことはこれ以上ないほど明瞭だった──ここにいる誰も、昼のうちに抱えたまま眠れない理由を一夜で開いてやること。違う言葉なら、「灯明祭の前に手順を固め、誰もが安心してその夜を選べるようにすること」だ。
だが妨げははっきりしている。自分はその夢に入れない。いま同時に開けられる部屋は五つまでだということ。もし夢を壊せば、その人の大切な記憶まで薄れる。箱の中の鍵を見つめるたびに、その重みが胸にのしかかった。守るのは宿に残る人々と、外へ出られない不死者たち。彼らは名を忘れないための一夜を求めている。カイは言葉にしてから、静かに息を吐いた。
「カイ、そんなに硬い面持ちで何を考えとる」声は低く、乾いた笑いを含んでいた。給仕長のベラは布切れで前掛けを整えながら、廊下の向こうからやってきた。淡い蛍光のような目が、長い髪の束を透かして宿の奥を見渡す。生気が戻らない顔立ちだが、その目は確かに機能している。人の心配をする匙加減を知っている者のものだった。
「今夜は試験的に、三室までにしておこうと思う。」カイは鍵を見せる。ベラは一度それを手に取り、指の先で触れたあと、首を横に振った。
「三、か。五まで開けられるのは知ってるけど、あんた一人でやるには危なすぎる。手順を決めておかないと、夢が崩れたときに後戻りできないわよ」
「だよな」カイは肯いた。「だから、ここにいてほしい。給仕長として、式のとりまとめと客の同意の確認を頼む。あと……」
廊下の突き当たりから、小さな影が縺れるようにして現れる。甲冑の端切れが擦れる音。アニカはいつも武具の手入れ道具を抱えているかのような姿で、宿の階段を降りてきた。侍女ではない、騎士を名乗る少女だが、目は戦場の灰を拒むように澄んでいる。彼女が近づくと、床の木板に縦に刻まれた古い血の斑が目に入る。アニカはその跡を避けるように足を運び、カイをじっと見た。
「人の夢を覗くって、どんな仕事なんだ?」彼女の声は釣り合いの取れた冷たさを含んでいた。剣を振るうより先に言葉で線を引く人だとカイは知っている。戦場を嫌う理由は、彼女の背中に残る白い瘢痕が物語っていた。だが彼女には、誰かを守るという本能が確かに残っている。
「覗くことはできない。宿主は夢に入れない。代わりに、客が鍵を預けた部屋の中に一晩だけ、その人が眠れない理由を夢の風景として具現化するんだ。俺はそれを確認して、必要なら調整する。だが破壊すれば記憶が消える。だから一つ一つ、客と話して、同意を得る必要がある」
アニカの頬に小さな影が落ちた。彼女はじっとカイの目を見つめ、手の内の布をぎゅっと握った。
「同意、ね。任務ならやる。けど戦うのは嫌だ。一度でも強制された形で人が泣くなら、俺は剣を取らない」
「それでいい」カイは胸を撫でるように笑った。「守るのは強制じゃない。選択を作ることだ」
そこへ三歩ほどして寄ってきたのは、宿の帳面を守る老犬の霊、バロだ。骨ばった尻尾が床を擦る音は、見た目の年に似合わず軽やかだった。だが彼の額にはかすかな皺があり、目は宿帳のページを追うように動く。バロは口を開くと、思いがけず人間の言葉で一言、低く言った。
「帳が増えとる」
その言葉は静まりかえった廊下に落ちた。ベラが眉を寄せ、アニカが首を傾ける。カイは箱の蓋を押し戻し、鍵を一つ取り出した。
「増えてる?」カイは訊いた。
バロは座り込み、前脚で床を掻きながら答えた。「毎朝、白紙が一頁ずつ増える。客の名を書くところが、空白で置かれてる。書いてくれ、と催促しても、何も書けない。俺が鼻先で示しても、名が薄れてゆくだけだ」
その言い方は、ただの好奇心ではなかった。バロの鼻先が宿帳の角を示す仕草には、守護者としての切実さが込められていた。カイは宿帳の置かれた台へ歩み寄る。灯りに照らされた紙面は本当に白かった。そこには行が引かれているだけで、文字はなかった。空白の冷たさが、紙の上でいびつに歪む。
「それは……」ベラが息を飲む。彼女は自分の指先で紙の端を撫で、やはり何も残らないことを確認すると、低く唸った。「忘却ってやつね。だが帳の空白は放置できない。名は名であるべきだわ」
三人の視線がカイに戻った。彼は鍵をぎゅっと握り返し、深呼吸をした。
「まずは、手順をつくろう。俺がやるのは具現化の調整だけだ。給仕長は同意確認と式の管理、アニカは外の警護と客の心の守り、バロは宿帳と鍵の管理。だが、必ず全員の同意を取る。客が鍵を預けるときには、室内に具現化する内容の概要を口にしてもらって、署名をもらう。具現化の最中は外から安静を保つ。合図がなければ絶対に触れない。壊れたら記憶が薄れる、忘れてはいけない」
ベラは黙って首を縦に振り、アニカは小さな頷きを返した。バロはしばらく宿帳を眺めてから、カイの前足を軽く触れたように見せてから口をきいた。
「おまえ、宿主だろうが。夢に入れんって言うが、それでも責任はおまえにある。ならばその責任の重さをわかっておけ。俺は帳の番をやる。でも、帳の名が消えるってのは、ただの事故じゃない。何かの作用が働いている。気を付けろ」
バロの目はいつもの陽気さを含んでいなかった。彼には宿帳の白紙が、夜道での獣の足跡のように意味深く見えているのだ。
「わかった」カイは素直に応えた。「手順通りにやる。誰かが強制されることはしない。もし夢が崩れたら、被害を最小にするためにすぐ遮断して、被害者に寄り添う。俺たちでできる範囲なら、どこまでも手を貸す」
それから三人と一匹は手分けして動き出した。ベラは湯を沸かし、客室の戸口にお辞儀の印を置くための小さな白布を縫い始めた。アニカは外の通路の戸を点検し、金具の緩みを直す。バロは宿帳を引っ張り出し、ページの端を嗅ぎ分けながら、過去の記録の痕跡を探す。カイは客の声を聞くために客間へ行き、鍵の提示と説明をする段取りを口頭で練習した。会話は簡潔で、誰もが自分の役割について真剣だった。
夜半に近づくと、最初の依頼がやって来た。白髪混じりの中年の女が、薄い布を握りしめて宿の引き戸を押した。彼女は声を震わせながら、鍵をカイの手に差し出した。手の震えの理由を訊くと、彼女は数年前に戦場で死んだ息子の顔が夜になると頭に浮かび、眠れないのだという。名も聞く前に、カイは箱からその客室の鍵を選んだ。客は確かに、鍵を預けた。
手順に従って、ベラが同意書を読ませ、女は震える指で署名の代わりに印を押した。アニカはドアの前に立ち、外の通路を見張る。バロは宿帳の傍らに坐り、静かにページの端を撫でる。カイは深呼吸して、鍵を胸ポケットへ戻した。
具現化は静かに始まった。室内の古い灯りが吸い込まれるように暗くなり、床の上に雲のような淡い霧が立ち上る。窓の外の月光はいつの間にか室内の一つの角を照らし、そこに古びた草地と一本の木が現れた。風の匂いがようやく届く。そこにいるのは記憶の断片でしかない。息子の笑い声。女は目を閉じ、頬を涙が伝った。
「見える」ベラの