不死者の宿屋

不死者の宿屋 第17話「第15章」

朝靄がまだ町を包んでいる時間、カイは宿の中庭で三つの鍋を並べ、油を熱していた。手先は無駄に慌ただしかったが、動きは落ち着いている。ベラが向こうで皿を磨き、アニカは門前で町の人と話し合い、バロはいつもの居場所から離れずに宿帳を鼻先で押さえていた。カイは鍋の傍らで火加減を確かめながら、今自分がしたいことを端的に口にした。

朝靄がまだ町を包んでいる時間、カイは宿の中庭で三つの鍋を並べ、油を熱していた。手先は無駄に慌ただしかったが、動きは落ち着いている。ベラが向こうで皿を磨き、アニカは門前で町の人と話し合い、バロはいつもの居場所から離れずに宿帳を鼻先で押さえていた。カイは鍋の傍らで火加減を確かめながら、今自分がしたいことを端的に口にした。

「今日、手順を公表する。安全策を示して、皆でやる方法を見せるんだ。証拠を出す。軍の連中に、強引な利用は許さないと示す」

ベラは皿を置くと、手を拭いてカイに近づいた。彼女は骨ばった指先でコーヒーの湯気を払うように宿の空気を整え、いつもの無表情を崩さずに言った。

「具体的に誰を連れてくるの?」

「志願者を三人、最大でも五人まで。鍵を預けてくれる人だ。手順は公開する。受け答え、同意、記録、それから夢の扱い方。壊したらどうなるかも隠さない」

アニカが門から戻ってくる。鎧は外していたが、肩に残る鋼の香りと、断ち切れない戦場の影がまだある。彼女は短く笑ってから、低い声で告げた。

「町長と話した。反対する者もいる。でも多くは知りたい。軍が性急なら、私たちが先に見せればいい。暴力で奪わせはしない」

バロは宿帳に顎を乗せて、渋く咳をした。彼の背中の毛並みは少し銀色に光り、長年の習慣が染み付いた顔に疲労が刻まれている。

「帳は厳重に扱え。どんな署名も写しを残しておく。あれ(空白)を晒すことはしないが、記録の正確性は担保しないとな。あと――」バロはぐっと目を細めた。「鍵を預けた部屋に限る、と言え。宿主が勝手に開けるな、と。でないと、名前が消える」

カイはその言葉を黙って受け取りながら、灰色の目で宿の正面を見た。イグナの部隊がこちらを注視している。噂は町の街角を回っていた。軍は不死者を兵器にしようとし、宿の境界を奪おうとしている。だからこそ、カイは「公開」を選んだのだ。秘密にしたままでは、軍のやり方を許す口実を与えてしまう。

午前十時、宿の前には人だかりができていた。町長、商人、主婦、年老いた兵士、若い母親。皆、何かを見届けるために集まっている。入り口では、ベラが受付を仕切っていた。彼女は客一人一人に説明用紙を手渡し、同意の署名をもらう。言葉は簡潔で、逃げ道はない。

「ここに署名すると、あなたは自発的に鍵を預け、指定の部屋で一夜だけ夢の具現化を行うことに同意したことになります。宿主は夢に入れませんし、同時に具現化できる部屋は五つまでです。夢を破壊した場合、客の記憶が薄れる可能性があります。理解しましたか?」

一人の母親が手を挙げ、震える声で尋ねた。「破壊って、どういうことですか。どうやって壊れるんですか」

「物理的な乱暴や、無理な干渉、意図的な外部操作が原因になり得ます。例えば扉を無理に押し開ける、夢の中に侵入しようとする、強い精神的衝撃を与える――そういう行為が夢を崩します。崩れ方は様々ですが、結果として客の持っていた記憶の一部が消えたり、薄くなったりします」カイは淡々と答えた。言葉に冷たさはないが、重さがあった。

ベラが隣で付け加える。「消えるのは些細なものかもしれない。けれど、些細とは言えないもの──名前や顔、音、匂いの記憶が抜け落ちることもある。それを『代償』と呼ぶのは、あまりに安っぽいけれど、皆さんには知っておいてほしいの」

承諾を得たのは五人。正確には、五つの部屋を使うという計画に沿った数だった。並んだのは、白髪の郵便配達人、細面の若い鍛冶屋、年老いた女性、戦傷の痕を胸に残す男、そして静かな眼差しの少女だった。全員が自分の鍵をベラに預けた。鍵は磨かれ、受付の小箱に丁寧に収められる。バロが宿帳に一つずつ名前を書き写し――書き始めるが、いくつかの行は空欄になった。バロはその空白を心配そうに舐めるように見ていた。

「空欄は不安になるな」アニカが低い声で言う。「だが、今日はそれを見せることに意味がある。名を失った者たちが何を訴えたいか、見せるために」

準備は手順どおりに進んだ。外部からの機材持ち込みは禁じ、誰も無断で部屋に立ち入れない。入室した者は、必ず事前に精神の安定を確認され、夜中の照明、監視、相談役が配置された。カイは呪文めいた言葉を使わず、鍵を手にして扉の前に立った。自分の能力が起動するのは、鍵が預けられた部屋の扉に触れた瞬間──しかし、そこで姿を借りるのは夢の風景だけで、カイ自身は決して中へ入れない。それが、誰にも説明できない孤独だった。

最初の扉を回す。音は小さく、だが確かなクリックがした。空気が変わる。扉の向こうから、土の匂い、古い木の香り、子どもの笑い声が滲むようにして流れ出してきた。通りに集まった人々は息を呑み、誰もがその変化に身を寄せる。夢は、部屋の中に光景として立ち上がる。そこには預けた者の眠れない理由が形をとり、夜の灯りの下で現れる。

郵便配達人の部屋には、明滅するランタンの列と、彼が一度も渡せなかった手紙の山があった。鍛冶屋の部屋は、火花の弧と鉄の歌。年老いた女性の部屋には、海の端に立つ家、波の被った砂利道、忘れたはずの孫の足跡。戦傷の男の部屋からは、砲声と煙の匂いが立ち上り、静かな少女の部屋は、薄暗い温室に咲いた花の列だった。

夢は見る者にしか見えないわけではなかった。物理法則を完全に超えたわけでもなく、空気の振動や光の角度、匂いまでもが現実世界を浸食した。これが、公共の前で示すべき証拠だった。カイはどの部屋でも中に入れないから、見守るしかない。誰かが部屋に入るとすれば、それは預けた本人か、同意した人だけだ。だが、夢の中にいる相手と対話することはできる。親は亡くした子に、夫は戦友に、少女は失った日の理由を告げる。外で待つ観衆は、窓越しにそれを見守る。ある者は涙を流し、ある者は顔をこわばらせた。

三つ目の部屋で、小さな歪みが起きた。年老いた女性の夢の風景が、突然ざわつく。波の音が急に鋭くなり、灯りがちらついた。誰かが外から窓を叩いた。だが外には許可された者以外いない。物音は人為的だと誰もが直感した。夢の境目が震え、室内の海の光景が波立つ。年老いた女性は窓を駆け寄り、薄暗い温もりの中で孫を探すように手を伸ばした。その手が――触れようとした時、突如として映像は裂けた。

叫びが上がる。女子の顔から涙が零れ、郵便配達人は拳を固めた。香りや音が引き剝がれる音が、外の空気にも伝わった。夢が「破壊」された。部屋の中の景色は崩れて、砂粒のように散った。瓦礫のような記憶のカケラが部屋の隅に積もる。

年老いた女性が呟いた。「私は……誰なの」声は小さく、どこか遠くを見ている。彼女の瞳は曖昧で、朝の空気を認識していないようだった。ベラが駆け寄り、優しく背中をさすった。だがその手の温度は足りない。バロは宿帳をひったくるように咥え、首を振った。カイは胸をつかまれるような痛みを感じた。夢が壊れた時に起きる代償が、目の前で現実になったのだ。

「何があった」アニカの声は怒りを孕んでいたが、彼女は武器には手を伸ばさなかった。非暴力の方針だ。彼女は押し止めるように人々に向き直り、低く説得する。

「落ち着いて。誰かを傷つけてはいけない。私たちはこれを公開して