時間花の花屋 第4話「第3章」
朝の光が屋根の裂け目から差し込み、街の屋根群が刻花の薄い光で縁取られている頃、店の扉はいつもより早く開いた。トーマは手早く簾を上げ、冷えた空気を胸の中に取り込む。昨夜書き加えた帳面の縦線が、窓際に置かれた白い花の影を細く分断している。手を伸ばして花弁に触れると、内側からわずかな温度が伝わった。白花とは違う、普通の金輪の刻花だ。だがその香りに、昨日と同じ種の枯れから来る何か――灰のような粒子が混じっているのをトーマは感じた。
朝の光が屋根の裂け目から差し込み、街の屋根群が刻花の薄い光で縁取られている頃、店の扉はいつもより早く開いた。トーマは手早く簾を上げ、冷えた空気を胸の中に取り込む。昨夜書き加えた帳面の縦線が、窓際に置かれた白い花の影を細く分断している。手を伸ばして花弁に触れると、内側からわずかな温度が伝わった。白花とは違う、普通の金輪の刻花だ。だがその香りに、昨日と同じ種の枯れから来る何か――灰のような粒子が混じっているのをトーマは感じた。
客は朝のうちに集まり始めた。最初に来たのは小柄な女で、目の端が赤くなっている。手に抱えた刻花をそっと差し出し、声は震えていた。「この花を買ったら、子どものことが……覚えられなくなったのです」。言葉は途切れ、彼女は花を胸に抱きしめる。トーマはうなずき、店の奥の椅子へと促した。説明を受けながら、彼は手帳を取り出し、名前と受け渡しの時刻を記した。売買の履歴を残すようにしてから、店は余計な疑いを避けられると考えたからだ。
女が話し始める。幼い娘は三つで、笑うと歯ぐきが見えた。写真の中のその笑顔ははっきりしている。だが女は、娘の「好きな味」がどうしても思い出せないと言った。顔は、笑い方は、どのぬいぐるみを抱いていたかまで覚えている。だが「好きな味」が空白になってしまう。入れた食材の組み合わせさえ、どれを好んだかが宙に浮いたままだという。
トーマは花を受け取り、嗅いだ。香脈読解は習慣であり、必要があると感じたからだ。花の香りは最初に日常の湿りを運び、やがてある食卓の向かい合う小さな身体の輪郭を立体的に浮かび上がらせた。木の椅子の軋み、鍋をかき混ぜる金属音、けれど中心には欠けがあった。皿の上に置かれた一皿が、まるでページの一片が切り取られたかのように消えている。その部分だけ無音で、色が抜け落ち、香りも吸い取られていた。
映像は強く、トーマの胸を掴んだ。だが一瞬、いつもの代償が脳裏をよぎった。母の声が、遠くで掠れている。今朝、棚から取り上げた白い花を指で撫でたときよりも、さらに一枚、母の歌の断片が薄くなっていることに気づく。短いフレーズだった。温室の湿りと、母が指で葉を撫でる音――その細かな区切りが、指先からこぼれ落ちる砂のように消えていく。だが今は、目の前の人の損失を優先するしかない。
「ここが、きっと欠けている」トーマは静かに言った。「一皿の味、その中で決まっていた匂い……そこが、消えているんです」
女は涙ぐみながら、肩をすくめた。「でも、どうしてこんなことに。花を渡しただけで、どうして──」
「可能性は寛大に見て、二つあります」とトーマは言い、言葉を慎重に選んだ。「花そのものがそういう力を持っているか、あるいは流通の中で何かが起きているか。確認する必要があります。あなたの花には、灰色の混じった匂いがある。ほかにも同じ匂いを感じた人がいるかもしれない」
その言葉は必要以上に真摯に響いた。女は頷き、店の外へ出るときに小さな声で礼を言った。見送りの間に、通りの向こうで子どもが跳ねる音がした。トーマはふと、自分の胸にぽっかりと出来ている穴の感触を確かめた。嗅ぐたび、失われるものが増える。だがここで止まるわけにはいかない。
午前中が過ぎるにつれて、似た報告が続いた。年老いた男は、戦時中に助け合った隣人の顔は覚えているが、隣人が持っていた帽子の形状と、その人が好んで飲んだ香草茶の匂いが抜け落ちていると言った。若い母は、幼い息子の歌の一節だけが思い出せない。皆、共通して家族にまつわる「部分的」な記憶を失っていた。切り取られたような跡。それはランダムのようでいて、同じ色合いを帯びていた。灰色だ。
トーマは花をいくつか取り寄せ、慎重に嗅ぎ分けた。香脈読解は花弁ごとに一場面だけを映し出す。花によっては欠けがより顕著で、中心の場面だけが白紙になっていることもあった。嘘や虚飾が介在する場合は、欠けが輪郭だけを残している。だが今回見た欠けは、嘘の痕跡ではなかった。どこかで何かが、記憶の香りをそぎ落としていた。
店の前に列ができた頃、外に重い歩調が近づいた。鉄の鎧をまとった暦守の部隊が二列に分かれて現れ、その先頭に立っていたのは、淡い灰色のマントを羽織った女だった。暦守――ヴァルネ。彼女が歩くと、空気がどうにか秤にかけられるように冷たく締まる。顔立ちは端正で、瞳は澄んでいる。口元に笑みはなかった。
「水城トーマか」彼女は店先で立ち止まり、低く、それでいて全員に届く声で言った。表情は硬く、声には官職が乗っていた。「市の暦守の命により、本店は当面の間、閉鎖される。理由は市民からの多数の苦情。花が渡された後、家族に関する記憶の消失が相次いでいるという報告だ」
人々のざわめきが強まる。トーマは胸の中で何かが弾けるのを感じた。封鎖と言葉を聞くと、店先に置いた帳面が白い板のように固まる。ヴァルネは彼の手元の帳面をちらりと見て、眉をぴくりと動かした。そこには今朝まで彼がつけていた売買記録があった。トーマは声を張り上げた。
「私がすべての原因だとは言い切れません。流通のどこかで、記憶が加工されている可能性もあります。だから記録を確認して、どの段階で変化が起きたのかを──」
ヴァルネは言葉を遮り、淡々と言った。「誰が原因でもいい。被害が出ている以上、当局は被害の拡大を防がねばならない。売買の現場を封鎖するのは常套手段だ。あなたが意図的に人の記憶を奪ったならば、当然、その責はあなたが負うことになる」
彼女の言い方には揺らぎがない。ごく短い、その毅然とした調子の中に、何か別の感触が潜んでいるのをトーマは感じた。言葉には冷たさと同時に、深い苦悩の影がある。だが今は、彼女の内面を推し量る余裕など誰にもない。部隊が中へ踏み込み、陳列棚に目録の印章を押し始める。封印の帯が木枠に貼られ、店の口元をぐるりと囲んでいった。
それでもセナは店を離れようとしなかった。彼女は静かに店の奥から歩み出て、ポケットに入れていた空瓶を取り出す。手際よく蓋をし、棚の一段にそっと戻す。通りのざわめきの中で、その行為はまるで別の時間を刻む音のように静かだった。ヴァルネの役人が封印の説明をしている最中、セナはトーマの脇に立ち、目を合わせる。語らぬまま、彼女は首を振った。逃げるつもりはないのだと、その所作が伝えていた。
「貴方は、本当に、何も知らないのか」とヴァルネは問うた。「記録ではこの店の花の流通量は急増している。安価なものが跡から大量に流れ、貧しい地区で優先回収されていた。その中で『灰色の香』という報告が付き始めた。もしあなたの店が発端なら、被害はここで止められる。もし違うなら、現在の封鎖は不幸な必要だ」
トーマはひと呼吸おきに言葉を拾っていった。「店が発端という証拠は、まだ揃っていません。僕が花を嗅いだら、その記憶は僕の中に残る。だから、ここにいる僕こそが、最も詳しい証人にはなれるはずです。調べてください。環境、流通経路、貰い手の家族構成まで──」
だがヴァルネは冷たい微笑を浮かべただけだった。「それは貴方が同意するかどうかの問題ではない。暦守の判断だ。証拠が集まるまで、ここは閉められる。市は被害の再発を許さない」