時間花の花屋 第3話「第2章」
朝の光が屋根の列を撫でるころ、店の扉はいつものように開いた。屋外の風は刻花の匂いを薄く混ぜ込み、屋根ごとの光の波が通りに落ちる。トーマはまだ眠気の残るまぶたをこすりながら、カウンターの上に置かれた小さな帳面を手に取った。表紙は擦り切れ、中には店主のくせ字と見覚えのある細い字がまじっている。そこに書かれた赤い一行、「この花を売るな」は、朝の空気を少し重たくしたまま机に残っていた。
朝の光が屋根の列を撫でるころ、店の扉はいつものように開いた。屋外の風は刻花の匂いを薄く混ぜ込み、屋根ごとの光の波が通りに落ちる。トーマはまだ眠気の残るまぶたをこすりながら、カウンターの上に置かれた小さな帳面を手に取った。表紙は擦り切れ、中には店主のくせ字と見覚えのある細い字がまじっている。そこに書かれた赤い一行、「この花を売るな」は、朝の空気を少し重たくしたまま机に残っていた。
セナはいつもどおり、朝の儀式をしていた。彼女は静かに背を丸め、棚の一番下の段から小さなガラス瓶を取り出す。瓶は何の飾りもない無色透明の、どこにでもあるものだ。彼女はそれを軽く掲げて、扉の方を向いた。外で通りを行き交う人々の顔がちらりと見え、セナはその気配に耳を澄ませるように、一度だけ息を止めた。そして、瓶の口から一回分の空気をすっと吹き込み、棚の隅に戻す。動作は短く、指先の震えがかすかに見えた。
トーマはいつものようにそれを水差しか何かと誤解しかけ、言葉を継ごうとしたが、セナは手を振って制した。彼女は目を伏せたまま、小声で呟いた。「……また、今日も」。その言葉の先にあるものを、トーマはすべて理解したとは言えなかったが、瓶の中の「無臭の空気」が、彼女の守りたい何かの代わりなのだと直感した。
午前の人足が落ち着く頃、ドアのベルが控えめに鳴った。小さな影が戸口を覗き込み、痩せた手に包まれた一輪の刻花を差し出した。花は輪が二つしかない。輪は少ないほど開花が短く、価値が低い。それでも、少女の瞳は切実で、唇の端に薄い震えがあった。彼女はトーマを見上げ、言葉を絞り出すようにした。
「これで……お腹を、満たせますか。兄が、今日熱を出して……でも、仕事は休めなくて」
トーマは茎を受け取り、その震えを確かめると、いつもの気まずい癖が顔を出した。前世のときの癖で、言葉を失わせる沈黙があった。だが、店を継いでからの彼は違った。黙っていたら、誰かの困りごとを見逃すだけだと、どこかで思っていた。だから彼は短く息を吸って、にわかに笑ってみせた。
「うん。大丈夫だよ。すぐに温めてあげられるものを教えるね」
少女は小さく吐息を漏らし、手にした花をぎゅっと抱きしめるようにした。名前を聞く機会を逸したまま、トーマはふと鼻先に花を近づけた。訓練したわけではない。本能がそこへ指を向けたのだ。花の匂いは、微かな塩気と古い木の匂いが混ざったようで、ほんの瞬間だけ心の奥を撫でた。彼が能力を使うとき、世界はいつもより音を減らす。空気が引き締まり、花弁の縁が色を濃くする。
香脈読解――香りの通路が彼の内側で振動し、花びらの奥に小さな風景が開いた。だがそれは、窓から差し込む朝陽のように滑らかに展開した訳ではなかった。花弁の中に浮かんだのは、木のテーブル、二つ折りのランチョンマット、湯気の立つ小さな椀、そして肩を寄せ合う三人の影だった。映像は立体的で、宙に作られた小さな部屋のように見えた。だが視界の一角が、まるで紙を破ったように欠けていた。湯気の輪郭が切り取られ、椀の縁が空洞になっている。欠けた部分は白い余白で、そこだけが匂いを失っているように感じられた。
少女の幼い姿が、箸を動かす手で笑っている。兄がふたり分の朝食を分け合うようにして、父が背を伸ばしている。暖かさと安堵の層が重なり、トーマは思わず口元を緩めた。嗅いだだけで、目の前にあるものがどこか別の時間の光を帯びる。料理の香りが鮮烈に広がり、彼の舌の端に塩味の記憶が残った。だが、欠け。そこに違和感があった。欠けた部分は、なぜか女の人の視線と対になっている。母親が何かを見失っている。あるいは、誰かにその場面の一部を取り上げられたようだった。
トーマはその違和感に名前をつけようとした。だが彼の能力は事実を映すカメラではなく、匂いという線から断片的に世界を引き出す機械のようなものだった。匂いが示す「最後に触れた人」の断片だけが灯る。欠けは「嘘をついた本人の記憶が読み取れないこと」を示すはずだと、教えられていた。だからトーマは一瞬、少女が何かを隠しているのだろうかと考えた。だが目の前の少女は、あまりに純粋で飾り気がなかった。嘘をついて得をするような立場に見えない。欠けは別の理由の可能性もあった。
鼻腔に残る余韻が、胸の奥に小さな冷えを落とした。その冷えは、彼が前世から持ってきたものと同じ手触りをしていた。母の声が、ほんの一瞬だけ遠のく。能力を使うたびに彼の中の、前世の母に関する記憶が一つ薄れる。使い始めの数回はそれが微細で、彼は気づかないこともあった。だが此度は明瞭だった。母が台所でつぶやいた言葉の切れ端が、指の間から滑り落ちるように消えた。思い出の端が霧散し、温室の湿った土の匂いが少しだけ色褪せた。胸の奥がぽかりと穴を開けた。
トーマは咳をし、花を元の位置に戻した。少女は待っている。彼は意地の悪い選択肢を頭の中で並べた。匂いから引き出した光景は、人を引きつける。誰かの幸福の断片を見せれば、金は得られるだろう。だが同時に、花を金に変える行為が、その人の過去の一部を切り取ることにつながる。もし自分がその仲介者になれば、誰かの家族の記憶が消える手助けをしてしまう。店主の帳面の一行が、朝よりも重く胸を打った。「この花を売るな」。禁制の札ではなく、誰かの過去を売るなという警告だったのかもしれない――その可能性が、彼の中で固まりつつあった。
「お金はいいよ。家族のために、使って」
少女は躊躇いながら言った。言葉の裏にあるのは、恥ずかしさと誇りだ。自分一人のためではないという自負。彼女はテーブルに戻ると、兄のために湯を沸かし、薬を探すだろう。トーマは花を金に換えることを拒むような言い方はしなかった。代わりに彼は、もう一冊の小さな帳面を引き出した。これは店の公式な帳簿とは別に、彼が自分でつけるためのものだった。ページは分厚く、鉛筆の走る跡が赤茶けている。
「取引は記録しておくよ」とトーマは言った。声は思ったよりも落ち着いていた。「誰が、いつ、どの花を持っていったか。匂いで見たことも、外には書かない。だけど、後で何か変だと分かったときには、これが役に立つかもしれない」
少女は不審そうに眉を寄せたが、同意するように小さくうなずいた。トーマは鉛筆を取り、日付、時間、輪数、買った人の年齢と顔立ちを素描するように走り書きした。加えて彼は、見えた場面について一行だけメモした。――食卓、三人、湯気、椀。欠けた箇所を小さな破れ紙の図で示すと、鉛筆の線がはっきりと震えた。書き上げた後、トーマはそのページにもう一言だけ付け加えた。「匂い:灰色の混入。後追い要」。
少女は札を差し出し、トーマはそれを受け取って懐にしまった。彼女が店を出ると、トーマはふと自分の胸を見た。そこには穴が空いている気配があり、母の声は少し遠い。彼はその変化を、正確に測る方法をまだ持っていなかった。ただ確かなのは、何かを得るたびに別の何かを失っているという事実だった。
午前の終わりに、店の外で小さな騒ぎがあった。午後の陽気に誘われて、通りの向こうから母親らしい年配の女が駆けてきて、トーマの店の戸を叩いた。彼女の顔は疲れていたが、目は鋭く、何かを探し