騎士団の悪役令息は失踪した王女を探す 第6話「第5章」
薄暗い書庫は蝋燭の匂いと古い糊の甘みで満たされていた。机に広げられた写本は、綴じ直された革の表紙に傷跡が残り、頁の端は人の手が何度も撫でたように光っている。ユリオはその頁に指の腹を軽く当て、記された一節を声に出した。
薄暗い書庫は蝋燭の匂いと古い糊の甘みで満たされていた。机に広げられた写本は、綴じ直された革の表紙に傷跡が残り、頁の端は人の手が何度も撫でたように光っている。ユリオはその頁に指の腹を軽く当て、記された一節を声に出した。
「『王女は自発的に去った』——これが、長年の公式の読みだ」
隣に立つマルセーヌは再生紙を抑え、眼鏡の向こうで眉をひそめた。彼女の指先には修繕用の糊が残り、慎重な作業の跡が光る。向かいには副団長アルヴェルトが腕を組み、胸のあたりで騎士団の紋章が暗く揺れている。書架の影に沈んでいるのは、年老いた元侍従長バノンと、王女の乳母だったアンネ・リッタ。二人の顔には、今その場にいることが許されることの重さと、言葉にしがたい恥の色がある。
「――それで、ユリオ殿はその一節をどうするつもりかね?」アルヴェルトが低く問う。彼の声には疑念と警戒が混じっている。ユリオはページを指でなぞりながら、静かに答えた。
「書かれていることを、ただ受け入れるのではなく、当時の当事者たちの合意で読み替えたい。『自発的に去った』というのは字面通りの意味だけでなく、選択の均衡を欠いた状況を曖昧に隠している。私はそれを『不均衡な選択を強いられていた』と、公式に読み替えたい」
アンネの手が小さく震えた。バノンの唇が硬く結ばれる。アルヴェルトの目が一瞬鋭く光る。
「合意だと? ただの願望表明を、書面の意味へと書き換えるというのか。誰が責任を負う?」アルヴェルトの問いに、マルセーヌが答えた。
「この写本は断片と追記が混ざっていて、修繕の過程で分かれた筆致が特定できる。侍従の署名はあるが、その署名が置かれた文脈と、実際に行われた選択とが食い違っている。そこを当事者の記憶と照らし合わせて、合意の上で読み替える——学術的には可能です。ただし、制度的な効力を持たせるには、当事者の同意と公的な捺印が要る」
バノンの顔に血の気が戻った。彼は昔の侍従としての矜恃を守るためにも、王室の面目を守るためにも、否定したい事実がある。しかしアンネの瞳は紙の隅に小さな折れ目があるのを見つめていた。彼女は苦しげに息を吐き、震える声で言った。
「私は見た。王女が廊下で震えていた夜を。侍従は……勧めたように見えた。『選べ』と。けれど選ぶには相手の権力が大きすぎた。私にはそれを止める力がなかった」
その言葉で空気が凝り固まる。アルヴェルトの手がテーブルを叩いた。
「それを認めることが、どれほどの波紋を呼ぶか分かっているのか。家名、地位、騎士団の役割——」
ユリオは静かに手を上げた。「波紋が起きるのは承知しています。だからこそ、合意の形で。皆の署名と証人があれば、読み替えは制度の内部に留め、公開の形で使える。外側からの暴走ではなく、関係者の合意による変化として」
アルヴェルトは黙り、バノンは昔の書類の匂いに目を細めるようにして懐かしさと苦さに沈んだ。沈黙を破ったのはアンネだった。彼女は胸の内に隠していた薄い包みを、震える手でテーブルに差し出した。
「これ――王女が最後に持っていたもの。道しるべの小さな地図と、誰かの手袋の切れ端。私はずっと抱えてきた。恥ではなく、説明のために使えるなら……」包みの中の布は、褪せた銀糸の縁取りがある小さな手袋の一部で、つま先の部分には微かな紋章の断片が見えた。アルヴェルトがそれを覗き込み、息を漏らした。
「これは……騎士団の古い紋章だ。廃されたはずの小隊のものに似ているが、現存する団の中にも同型がある」
帳簿の奥にしまわれていた秘密が、指先一つで引き出されたように、場の均衡が揺れた。ユリオは深く息を吸って前に出る。合意が必要なら、合意のしるしを自ら示す。彼は机の上に置いてあった小さな箱を取り、蓋を開けた。中には細い銀の指輪と、結婚に纏わる印章飾りが入っている。
「私がこの読み替えを求めるのは、王女のためだけではない。ここにいる皆が、嘘や曖昧さで縛られることなく選べるようにしたい。それが叶うのなら、私は一つの選択肢を差し出します」
アルヴェルトの目が疑念と不信で狭まった。「何を差し出すというのだ」
ユリオは指輪を手に取り、ゆっくりと外した。彼の手は震えていなかったが、指先に汗を感じた。指輪を机に置き、皆の視線を受けながら言った。
「婚姻の自由——私が未来に手にする選択肢のうち、一つをここに置きます。具体的には、公的な婚姻の自由のうち、私が自ら選ぶ権利の一つを、この合意の担保として差し出す。これでよければ、皆の署名をいただきたい」
部屋は凍り付いた。アルヴェルトの下唇が震え、マルセーヌは眼鏡の端を拭った。バノンは古い侍従としての面を上げ、目に光を宿した。
「それは――若者が自分の人生の一部を、政治的担保にするということだな。軽んじられない行為だ。だが、それが貴殿の意思なら、我々はそれを証する文書を起こそう。私は署名する」
アンネは涙を拭い、小さくうなずいた。「もしそれで王女の名誉が正当に評価されるなら……私は賛成します」
アルヴェルトはしばらく黙考したが、やがて頷いた。「騎士団としても、真実が敵対者の手にのみ残るのは許せない。だが公にされれば、我々が守るべき人々が傷つく可能性もある。だが合意の手続きならば、我々も手を貸す」
ユリオは深く息を吸い、指輪を机に置いたまま、膝をついて手を差し出した。マルセーヌが白紙の証書を取り出し、古い書きぶりで条文を記した。条文には改めて「当事者の合意による読み替え」と、その効力範囲が明記される。署名欄に一つずつ印を押していく。最後にユリオが欄に触れ、口を結んで誓いの言葉を述べた。
「私はここに、自らの婚姻選択の一つを放棄することを誓う。それをもって、本写本の公式的読み替えを合意の上で行うことを承認する」
彼の指が写本の文字をなぞると、蝋燭の光が一瞬強烈に揺らいだ。書庫の影が歪み、視界の端で白い閃光が走ったように感じられた。その瞬間、ユリオの胸の内側で何かが固く音を立てて閉じられるような感覚があった。紙の繊維が指先に冷たく感じられ、指輪は机の上で小さく光を反射したまま、もう二度と元の場所には戻らないような重みを帯びていた。
署名が終わると、空気は刃物のように切り替わった。書庫の外から足音が近づき、一つの声が低く告げた。
「これで、ある程度の文書閲覧が許される。だが条件がある」足音の持ち主は城側の法務官らしく、手には厚い帳束を抱えていた。アルヴェルトが警戒の姿勢を取る。法務官は続けた。「王家の当事者が認めたことが正式になれば、詮索はできる。しかし一つ、事実を示す物証が正当に示されねばならない。アンネ、君は何か渡せるものがあるのかね」
アンネは震える手で包みを開き、机の上に地図と手袋の切れ端を置いた。法務官はそれを顕微鏡のように覗き込み、顔色を変えた。
「この紋章は、現行の騎士団のある小隊と一致する。しかも、この地図は王女が最後に歩いた道を示している。ここから北へ、旧演習路を抜けると所謂『下門』へ至る。そこは外部の人間が夜でも出入りできる場所だ。もしそこに手掛かりが残っているならば、我々は正式に許可を出す。だが、これを動かすには騎士団の協力が不可