騎士団の悪役令息は失踪した王女を探す 第20話「第18章」
広間の石床が冷たく、夜風が高い窓の裂け目から吹き込んだ。蝋燭の炎は長い議論の痕跡のように、白いロウを垂らしていた。ユリオは重い革の手袋を押し当てて、ひんやりとした質感を確かめながら立っていた。耳にはまだ、廷臣ヴァリエの声が残っている。
広間の石床が冷たく、夜風が高い窓の裂け目から吹き込んだ。蝋燭の炎は長い議論の痕跡のように、白いロウを垂らしていた。ユリオは重い革の手袋を押し当てて、ひんやりとした質感を確かめながら立っていた。耳にはまだ、廷臣ヴァリエの声が残っている。
「合意の形式に瑕疵あり。付随した承諾は無効と認める――よって再審を要する。読み替えは一部のみ有効、しかし範囲外については……代償の追徴を要求する」
言葉は鋭かった。ヴァリエの左右には王室派の士族たちが並び、鎧がうすく金属音を立てた。騎士団の列は、いつもより静かで、だれも動かなかった。ユリオは、体の奥で何かが冷たく崩れるのを感じた。あのときと同じ感触――彼が交渉の儀(読み替え)を用いたとき、自分の選択肢が一つ失われるという約束の痛みだ。
「理由を示す。」ユリオは声を抑えて言った。手袋の下、指先が微かに震えた。
ヴァリエは書面をめくりながら、白い指を上げた。「付与された承諾の一部は、当該者からの真意に基づくものとは認めがたい。とくに未成年の従者や外縁の関係者については、『強制』の疑念が生じる。よって該当部分は無効。貴公がそれを基に運命を決めた場合、国法に従い補償として――選択の喪失を余儀なくされる」
彼らは制度の条文を読みあげるとき、まるで祭祀の呪文を唱えるようだった。ユリオの胸にある石がずるりと落ちる。彼は合意の読み替えを、いつも「当事者全員の同意」を条件に使ってきた。だが王室派はその同意を、後から「真意ではなかった」と申告できるように仕組んでいた。形式の隙間を突かれ、彼が作った小さな救いは半分引き剥がされたのだ。
「最初の代償を払ったとき、私は『選択の権利』を一つ失ったはずだ」ユリオは言葉を続けた。「その代償は、私が他人の未来を一方的に決めなかったことへの補償――だと。今回はどういう形で請求するつもりだ」
ヴァリエは笑みを浮かべた。「貴公の意思でなければ法は及ばぬ。が、文書は文書だ。読み替えの効力が後日覆されたとき、その責は読み替えを為した者に帰する。ゆえに――さらなる選択肢の喪失を課す。国はその正当性を確認した」
腹の底がぐっと冷えた。ユリオの視界に、これまで自分が抑えてきた記憶の断片が走馬灯のように映った。幼い日の誓い、盟友の笑顔、夜の城塞の屋根で聞いた王女のささやき。すべて、自分が「選べる」からこそ意味を持っていた。選択肢が一つ減れば、それらのうち一つが確実に消える。どれが消えるかは、いつも不可視の裁定だった。
「それでは、手続きを――」ヴァリエが高々と言いかけたそのとき、ロゼットが一歩前に出た。薄紫のドレスの縁に、夜露のような光が残っている。彼女の顔はいつになく真剣で、唇が震えていた。
「待ってください」ロゼットの声は低いが、広間の隅々に届いた。「あなたがたの言う『真意』を、ここで覆す証拠があります」
ヴァリエの眉がぴくりと動いた。「証拠だと? 誰が――」
ロゼットは手の中の小箱をぱちりと開いた。中に入っていたのは、色褪せた藍色のリボンひとつ。糸はほつれ、蜜の匂いがうっすらと残る。ユリオはあの日の匂いを思い出して、胸が締め付けられた。王女が小さかったころ、いつも髪に結んでいたという――そんな細やかな記憶。
「これは、王女の結び。幼名の誓いに用いる『即物の証』です」ロゼットはゆっくりと言った。「私がその場に居合わせ、王女本人の承諾のもとで、代筆として署名しました。私は幼き日の彼女の『代理』だった。その事実を隠していました。申し訳ありません」
広間が一瞬で静まり返った。ヴァリエの横で立っていた一人の老騎士が、目を細める。セドリック騎士団長だった。彼の顔に、鋭い驚きが走る。
「ロゼット……それは本気か?」セドリックの声は、掠れた実直な音だった。
ロゼットはうなずいた。「はい。私は王女と同じ屋根の下で育ち、同じ誓いを交わした。彼女が去った夜、私が署名し、彼女の名代として約束を与えた。それを証せるのは私だけです。あの合意は、強制ではなく、自発だった。私は証人であり、当事者でもある」
ユリオは胸が熱くなった。ロゼットの言葉には、偽りがなかった。彼女の手のほんのわずかな震え、声に混じるほのかな香りが、そこにある真実を裏付けていた。だがヴァリエは冷たく笑った。
「代理だと? 代理の署名は未成年の自己判断能力に関わる。法では慎重に扱うべきだ。証言としては聞いておこう。しかしこれだけでは――」
そのとき、広間の奥から、低い唸り声のようなものが上がった。騎士団の一角に立っていた若い騎士、ミランが前に出る。鍛冶屋のように逞しい手の持ち主だ。彼の瞳は赤く燃えていた。
「私は見ていた」ミランは短く言った。「ロゼットが王女と一緒に屋敷の中庭で遊んでいるのを――彼女が自分の意思で笑っていたのを。もし法が人の記憶を軽んじるなら、俺はその法に騎士として従えない」
彼の言葉に続いて、数人の騎士がうなずき、甲冑がかすかに鳴った。声は少しずつ広がっていき、形になった。「俺たちは見ていた」「王女は自分で選んだ」「強制じゃない」
セドリックは大きく息をつき、肩で砂埃を払った。「公の場で証言することは、騎士の義務だ。王女の不当な扱いを放置するわけにはいかん」
ヴァリエの顔に僅かな焦燥が浮いた。王室派の士族たちの列の中からも、囁きが起こる。形式主義で押し切ろうとした筋書きが、仲間の意思によって崩れ始めたのだ。ユリオは胸の中に、小さな光が灯るのを感じたが、それはすぐに重さに押しつぶされた。代償は、もう請求されている。
「よかろう」ヴァリエは短く言った。「では証言を採る。だが法廷の裁定は変わらぬ。読み替えの効力が部分的に失効した事実――補填は必要だ。貴公、ユリオ殿、さらなる代償を――選択の一つを放棄していただく」
ユリオはゆっくりと右手を差し出した。手のひらには、いつも身につけていた銀の指輪がある。彼が幼い頃、家系のしるしとして与えられたものだ。自分の選択肢はその指輪に象徴されているわけではないが、彼はいつしかそれを目印にしていた。両親と分かち合った約束、仲間と交わした未来、その全てが、その輪郭にまとわりついているように思えた。
「何をするつもりだ」セドリックが問う。
ユリオは指輪を外す指先に力を込めた。外すたび、胸の奥で固いものがひび割れる。指輪が外れ、冷たい光を放って掌に転がった瞬間、彼の中の一つの選択肢が音を立てて消えた。目の前の空間が少し淡くなり、幼い日のある約束がぼんやりと後退していくのがわかった。忘却というのとは違う。選べた可能性が、物理的に切り取られていくような感覚だ。
「――くれぐれも覚えておけ」ユリオは吐息を漏らした。「失ったものは戻らない。その重みで、私はお前たちを守る。だが――これ以上は」
一つの選択を手放したことで、ユリオの身に新たな縛りができた。言葉にしなければならない責務も増えた。だが仲間たちの表情は揺らいでいなかった。ロゼットの目には血の通った生々しい決意があり、ミランや他の騎士たちの顎は固く結ばれていた。彼らは、ユリオの代わりに選ぶことを辞さない覚悟を背負っていたのだ。
「我々は、王女の行き先を知る」ロゼットが