騎士団の悪役令息は失踪した王女を探す

騎士団の悪役令息は失踪した王女を探す 第19話「第17章」

活版機の歯車が喰い合う音が、地下室の石壁に鉄琴のように跳ね返った。紙が噛まれ、黒いインクの匂いが鼻腔を満たす。机の上には王室の布告を模した三枚の紙片と、マルコが汗で滲ませた手拭い。ページの端に鋭く折れた新聞の切れ端が、風もないのにばたついた。

活版機の歯車が喰い合う音が、地下室の石壁に鉄琴のように跳ね返った。紙が噛まれ、黒いインクの匂いが鼻腔を満たす。机の上には王室の布告を模した三枚の紙片と、マルコが汗で滲ませた手拭い。ページの端に鋭く折れた新聞の切れ端が、風もないのにばたついた。

「また出たか」ロデリクの声は低く、騎士団長らしい重さを伴って地下室に落ちた。彼は肩に羽織る団章をぎり、と掴んで押さえた。団章の縁に付いた金糸が、暗がりでわずかに光を放つ。

ユリオは机に肘をつき、切れ端を拾って広げた。王室が流したのは「失踪の首謀者=ユリオ」という見出しと、証拠を示すと言い張る古い式文の一部引用。字面は正確だが、意図的に文脈を切り取っている。鼻先をつくのはインクではなく、意図の腐敗臭だ。

「彼らは『式文』の一行を借りて、王女を『王室帰属物』と断じた。『保全を要する王室財』の一文だけを取り出してねじ曲げている」ユリオの声は冷静だった。だが指先は震え、爪の脇の皮膚が赤くなっていた。

マルコが両手を上下に振る。黒い手の平が地下の暗がりで目立つ。「うちの機で反論を刷ればいい。証拠を晒して、王室の偽証を暴く。だけどその刃はこっちにも向く。裁判の記録がある者は、王室の恨みを買えば、すぐに商売を潰される」

「それでも」ルシアが前に出た。彼女の瞳に火が混じる。小さな身長だが、その決意は熱さを伴っていた。「ユリオは……ユリオは嘘をついていない。私たちは自分の名誉を賭けます」

「賭ける、か」ロデリクは重い息をついた。「騎士が、公然と王室の弁を否定するのは膨大な代償を招く。だが、ここで黙るなら、王女は永久に『財』として閉ざされる」

ユリオはインクの匂いを深く吸った。血の匂いにも似ている。彼の能力はここで使えた。古制度の文書を、当事者全員の明確な合意に基づいて再解釈するという力。だがルールはいつも二つ返事でついてくる。合意がなければ使えない。さらに――

「もし、一方的に誰かの運命を決める読み替えを行えば、俺は自分の選択肢の一つを失う」ユリオは口にした。言葉は短い警告として響いたが、その重さは地下室の空気を沈ませた。「強行してしまえば、まるで自分の将来の分岐を一枚剥がすように、一つの道が消える」

ロデリクがゆっくりと視線を落とす。「それは……具体的には何を失う?」

ユリオは答えを探した。いつも抽象的にしか説明できない。だが今回、失われるものは確かに現れるだろう。彼はふと自分の胸元に触れた。そこに常にあった家の印章、父の形見の小さな銀の印章――冷たい金属が肌に馴染む。彼はそれを握りしめると、少し震えた。

「選択肢は、未来の『私』が取り得る一つの姿だ。家に戻ること、役目を放棄すること、あるいは許しを請うこと。どれでもいい。強制的に運命を決めたとき、そのどれかがぽろりと落ちてしまう。戻せない」ユリオは印章を見つめた。銀の輪に刻まれた家紋が、灯の下で冷たく反射する。

地下室の入り口で、扉が軽く軋んだ。黒ずくめの使者が顔を突っ込み、王室からの手書きの命令を差し出した。先に出された布告の、真ん中にゴシックの印が押されてある。影が、紙の上で踊った。

「——王室はあなたに『公然の悪役』という役を課すと言っています」使者の声は機械的だった。「さらに、反逆を扇動した者は、家名剥奪。騎士の庇護は認めない、との追認が出ています」

ルシアが息を呑んだ。マルコは印刷の刃に手を置き、爪先で床の震えを確かめた。ロデリクは団章を握り直し、小さな決意の欠片を集めるように歯を食いしばった。

「合意を取る必要がある」ユリオは言った。「王室と騎士団と、王女の代弁者……三者の了承を得られれば、俺は文句なく読み替えを行える。問題は王室だ。君たちだって知っている、向こうは合意なんてしない」

「ならば、合意を作るしかない」ロデリクの口が緩んだ。「私が表に出よう。騎士団の名で、動かぬ証人として署名をする。……ただし、私個人としての危険は承知してほしい。私はそれを負う」

「あなたが署名するなら、それで合意は成立する」ユリオはそっと微笑む。だがその笑みの裏では、冷たい計算がめぐっていた。ロデリクの署名は合意だ。だが王室の代表が指一本動かさないことには、完全な合意にはならない。王女の代弁者、という立場を持つ者がいる。ルシアの頬が一瞬白くなる。

「私がやる」とミナが言った。彼女はユリオの幼馴染で、王女付きの侍女を辞しているが、王女を知る立場にあった。「代理としての立場は、まだ私にある。私は署名する。王女が自らの意思で離れたという可能性を示すことに同意する」

「それで王室側の代表さえ合意するなら」ユリオは指を鳴らすようにして続けた。「合意は成立する。そうなれば、俺の読み替えは正当な手続きとして通る。だが一つだけ、条件がある。ここにいる誰かが公に名を売る覚悟をすることだ」

ルシアが身を乗り出した。「名を売る?」

マルコが目を伏せる。印刷所の広告で生計を立てている彼には、王室の怒りは致命的だ。だがマルコは自分の腕にインクをこびりつけ、ゆっくりと首を振った。「俺は刷る。だが俺の店は消される。覚悟はできている。必要なら、俺の名を晒せ。だがそれだけで済むとは思わない。王室はもっと強く来る」

「それでも俺は、やるべきだ」ルシアが静かに言った。彼女の掌が震える。「王女の意思を……誰の『財』でもないと示したい。ユリオ、あなたが力を使うなら、私は署名する」

ユリオは目を閉じた。合意は揃った。騎士団長、王女の代弁者、そして地下の印刷屋。三つが重なれば、古い文書は新たな文脈へと滑る。ただし――と喉が渇くほど冷たい言葉が脳裏をよぎる。もし王室がそれでも封殺を試みれば、彼らの合意は粉々になる。しかも、そのとき彼は……一方的に裁定を下す選択を出来たのに、しなかった。その「出来る」という権利が一つ減るのだ。

地下室の空気が張り詰め、ユリオは静かに両の掌を紙の上に置いた。書面は古い羊皮紙の模造だが、そこに彼の指が触れると紙がかすかな温度で反応した。読み替えの起動だ。彼の内部で、小さな鐘が鳴る。契約の感触。だが今回は三者の合意がある。正当に行使する――それが彼の望みだった。

「読み替え、開始する」ユリオは低く宣言した。言葉と同時に、彼の胸の中で何かが引き剥がされる感触がした。目を閉じると、そこに数え切れない未来の扉が並んでいた。どれも薄く光っていたが、一つの扉の光がすっと消える。消えた先には、誰かの視線がある――父の冷たい視線かもしれない。ユリオはそれを確かめようとしたが、もう遅かった。

ルシアの筆が震えて紙に落ちる。ロデリクが団章に指を通して署名する。マルコが印刷機にセットされた最初のシートを差し出す。合意は成立した。ユリオは文章を紡ぎ、古い式文に新しい解釈を与えた。王女は「保全の対象」ではあるが、それは「生活の保障を意味するもの」ではなく「個人の意思を尊重する範囲での保全」である、と。

インクの匂いが変わった。温度が下がり、地下室の灯りが薄く白く滲む。ユリオは胸に手を当てた。そこにあったはずの「戻る」という選択肢が、紙切れのように風に飛ばされていった感覚。言い表せば、彼の未来の選択のうち一つが消え