騎士団の悪役令息は失踪した王女を探す 第21話「第19章」
油の匂いと古い紙のかすれた匂いが、小さな部屋を満たしていた。窓は雨戸の隙間から灰色の光を差し込み、机の上で淡く踊る。その机の中央に、薄茶色の布片が皺くちゃに置かれている。ユリオはそっとそれを撫でた。布には微かな甘さと、誰かの肌の温度が残っているように感じられた。
油の匂いと古い紙のかすれた匂いが、小さな部屋を満たしていた。窓は雨戸の隙間から灰色の光を差し込み、机の上で淡く踊る。その机の中央に、薄茶色の布片が皺くちゃに置かれている。ユリオはそっとそれを撫でた。布には微かな甘さと、誰かの肌の温度が残っているように感じられた。
「匂い、わかるか?」とリラが囁く。彼女の指先は震えていた。机の上に開かれた日記のページは、誰かの細い文字で埋め尽くされている。インクは退色しているが、そこに書かれた言葉は生々しく、呼吸のように伝わってくる。
『灯りの下で、私は自分の声をきく。誰にも届かない声。でも届くことを願う』
ユリオは見開かれたページに自分の息をかけた。紙の表面が一瞬浮いたように動き、彼の指に小さな切り込みが触れる。そこには布の匂いと同じ、淡い香りが染み込んでいた。ページの端に押された小さな印章――王家のものではない、しかし後宮にゆかりのある印影。アイセリが残した痕跡だと、ユリオはわかった。
「これは……手紙の代わりに、彼女が書いた場所の記録かもしれない」とマルコが言った。彼は隣で紙を覗き込み、ページの間に折り畳まれた紙切れを取り出した。それは小さな地図に見えるが、目立つのはかすれた一行の文字だ。
『セーレン、聖橋の駐屯地に。夜香草とともに——』
ユリオの胸がざわりとした。聖橋は王都の外れにかかる古い石橋で、騎士団の小さな駐屯地がある場所だ。セーレンという名前は、騎士団の若い軍旗手――近年評判の良い人物の名だと、ユリオは記憶の端から取り出した。騎士団。視覚的に彼らを支配の象徴だと描いてきたものが、ここで匂いと紙切れによって別の色を帯びた。
「彼女が行った。自分の意思で」リラが低く言った。「逃げたのか、それとも誰かに助けられたのか。どちらにしても、私たちがするべきは『奪還』じゃない。選択の機会を戻すこと」
ユリオは顔を上げた。能力の残像が、頭の片隅で青白く煌めく。古い制度文書の矛盾を、当事者全員の合意によって読み替える——彼が呼ぶところの「共訳(きょうやく)」。だがそれは万能の呪文ではない。誰かの運命を一方的に決めれば、自分の選択肢を一つ失う。彼はその代償を、すでに一度、痛手として味わっている。
「暫定合意を作る」ユリオが言った。声は静かだが、重みがある。「王女アイセリの意思を、公的に守るために。だが今回は、共訳を成立させるために必要な当事者を揃える。騎士団の代表、後宮の番人、そして市の長――そして僕ら、当該の者としての王女の代弁者。全員の同意でなければ、力は働かない」
「騎士団の代表をどう説得する?」マルコが眉を寄せる。「あいつらは『秩序』を何より大事にする。王女が抜け出したという事実を、許すはずがない」
「許すかどうかではない。『解釈する』んだ」ユリオは紙の上の文字を指でなぞるようにして言う。「規則の文言と、実際に守るべき人間の生が矛盾するなら、その矛盾点を全員で見つけて合意する。僕にできるのは道筋を示すこと。道筋を歩むかどうかは──皆の選択だ」
彼は立ち上がり、部屋の隅に置かれた小箱を取り出した。暗い木箱の蓋には、かつて彼が祖父から受け継いだ家紋の紋章が刻まれている。箱の中には、古い誓約書と一枚の鞘の革片、そして金の印章指輪。指輪をそっと指に滑らせると、金属がひんやりと指に吸い付いた。彼がその指輪を外して箱に戻すと、部屋の空気が一瞬、重くなった。
「僕は代償を払う」ユリオは皆を見ながら言った。「この暫定合意を成立させるために、僕の一つの未来を差し出す。家の家督を継ぐ権利を、ここで放棄する。公的に、取り返しのつかない形で」
言葉は切り落とすように冷たかった。だが目の奥には確固たる決意が燃えている。リラは一瞬、驚きと怒りが交差する顔をした。マルコは両手を握りしめたまま、何かを決意するように睨んだ。
「そんなの――」リラが言いかけた。「あなたの未来を奪わせるなんて、ユリオ!」
「奪うんじゃない。自分で差し出すんだ」ユリオは静かに首を振った。「君たちが僕を止める権利はある。でも、僕はもう先延ばしにできない。君たちがそれでも賛成してくれるなら、僕はやる。これが一番確実に、王女の意思を守る枠組みになる」
部屋の空気は張り詰めた。やがてマルコが口を開いた。「代償を差し出すというのは、単に権利を捨てるだけなのか? もしくは、何かもっと希薄な、――君自身の可能性の一つが消えるのか?」
ユリオは指輪を懐から取り出し、掌で転がした。金は光を受けて微かに震えた。「両方だろう。法律的に家督を放棄することは、公的な未来の一つを消す。それと同時に、僕の人生の選択肢は確実に一つ減る。だが、それで一人の人間の意思が守れるなら──僕はそれを選ぶ」
リラは小さく息を吐いた。床に落ちた小さな雷雨のような音が、部屋に戻る。彼女の手はユリオの肘に触れ、その温度を確かめるように握った。「止めないわ。あなたが自分で決めたなら、私はあなたの選択を尊重する。だがその代わり、私たちは一緒に行動する。あなた一人で犠牲になんてさせない」
その言葉は一種の盟約だった。ユリオの瞳に、わずかに安堵の色が差した。
数時間後、彼らは暫定合意の文案を用意していた。古く色あせた写本を広げ、ユリオは指先で規定の文言と矛盾点を拾い上げる。そこにいたのは、騎士団の副長セレーヌ、後宮の番人である老練なグレスト、そして都市長の代表である市会使節だった。燭台の火が彼らの顔を照らし、書きかけの合意文に影を落とす。
「この条文は、王女の個人的な意思を、公権力が一方的に剥奪することを禁じる。だが同時に、王都の秩序保全と一致する形で、王女の居場所と安全を公的に尊重する」とユリオは読み上げる。その声には、これまでの彼の議論が積み重なった力が宿っていた。
セレーヌは眉間にしわを寄せたが、やがて静かに頷いた。「騎士団は秩序の番人だ。だが秩序の本質は、人々の生が保たれることにある。王女の意思を守ることが、秩序を損なうとは考えにくい」
グレストが古い鞭のような声で笑った。「後宮は伝統と規律が肝要だが、規律は生きる者のためにある。もし文章が生を縛るならば、読み替えるのもまた職務だろう」
市会使節は書類に朱を押す。最後に彼らは、合意文の最後に署名のための余白を空け、ユリオの差し出すべき代償を明記する項を設けた。彼は紙の前に膝をつき、ゆっくりと宣誓した。
「私はユリオ・ランクハイト。家督継承の権利をここに放棄する。これを以て、王女アイセリの意思を暫定的に公的に保護する合意を成立させることに同意する」
指輪を木の箱に戻すと、彼は封蝋を溶かした。硫黄と蜜蝋の匂いが混じり、近くに立つリラの髪がふわりと揺れた。彼は印章を押し、朱い跡が紙に吸い込まれると同時に、胸のどこかがふわりと軽くなったかと思えば、一点の冷たい空洞が出来たように感じた。未来の一つが消えたという感覚は、刃が入るように確かだった。
「これで合意は暫定的に効力を持つ」セレーヌが言った。「だが覚えておけ、ユリオ・ランクハイト。法は人の手で動く。これを守るかどうかは、明日の声が決める」
署名と合意の効力が場に残る。ユリオは満足とも悲壮ともつかない顔で、