図書館の悪役令嬢は大切な人に謝る 第9話「第8章」
図書館の最深部、南向きの窓から斜めに差し込む午後の光は、埃の粒を金粉のように揺らしていた。本の背表紙と古い糊の匂いが混ざった空気に、仲間たちの呼吸が溶けていく。机の上には今日交わされた同意書が重ねられていた。レイナはそれをじっと見つめながらも、心のすぐ奥に残る不安を拭いきれず、いつもの癖で腰の紐に下げた小さな記録札に触れた。
図書館の最深部、南向きの窓から斜めに差し込む午後の光は、埃の粒を金粉のように揺らしていた。本の背表紙と古い糊の匂いが混ざった空気に、仲間たちの呼吸が溶けていく。机の上には今日交わされた同意書が重ねられていた。レイナはそれをじっと見つめながらも、心のすぐ奥に残る不安を拭いきれず、いつもの癖で腰の紐に下げた小さな記録札に触れた。
「やったわね」ソフィアが小さく笑いながら、紙の束を指で弾いた。「村の婦人たち、みんな署名してくれた。読み替えの提示に同意してくれたって。これでサラは家にいられる」
「署名だけじゃない。公証の目印も押した。管区役人に根回ししたから、形式的にも通るはずだ」ケインが机をたたいて言った。彼の手には、薄い鉄の印章。音が図書館の柱に反響して、どこか心地よい余韻を残した。
マルコはまだ息を整えながら、紙を丸めて小さな箱に収めた。「正確には勝ちってほどでもない。役人たちは今夜のうちに動くだろう。だが抗議は通る。サラが自らの意志で残ることを選べば、法的にも強くなる」
皆の顔に安堵の色が差す。その瞬間、レイナは違和感に気づいた。紐に結んでいたはずの、四角い記録札が、いつの間にか一つ欠けている。彼女の指先に残るのは、細い裂け目と、わずかにざらついた凹みだけだった。
「レイナ?」
ソフィアの声が近づく。レイナは紐を引き寄せ、残った札を一つずつ確かめる。いつもは一列に並んだ小さな札が、今は一つ足りない。金属の糸が空白を残して揺れるのが見えた。太陽の光に、そこから一片の木屑のようなものがふわりと舞った。
思い出が割れた。いや、思い出の縁が剥がれ落ちるように、過去の一断片が消えかけた。レイナは目眩を覚え、掌に残る冷たさに息を詰めた。そこには確かに、誰かの笑い声だったか、誰かの小さな顔だったか——はっきりとは掴めないが、あったはずの何かが抜け落ちた穴がぽっかりと空いている。
「どうした、顔色が悪いぞ」ケインが席を立ち、肩を掴もうと伸ばした。レイナはふいに手を払った。
「いいえ、大丈夫」彼女の声はいつもより小さく、震えていた。「ただ……札が、なくなった」
ソフィアはレイナの腰に手を伸ばし、残りの札を丁寧に調べた。指先で触れられた木の感触は温かく、古い刻印の溝が指の腹に伝わる。マルコは眉を寄せて項垂れた。
「それって……まさか。以前に聞いたことがある。レイナさんが使うあの、読み替えの代償じゃないのか?」
レイナは唇を噛んだ。彼らにはまだ完全に明かしていなかった、能力の細部と代償を。だが今は隠す理由がなかった。卓の上の同意書が、かすかに風でめくれる。窓の外、図書館の塔のてっぺんで風が鳴っている。
「私の能力は、文書の矛盾を見つけ出して、当事者全員の合意で読み替える。それは完全な魔法でもなく、万能でもない。条件がある——」レイナは言葉を選びながら話し始めた。「誰かの運命を一方的に決めるような形で使った場合、私の選択肢の一つが失われる。目に見える形で。私はそれを札で確認していた。使うたびに札を一枚刻んで、残りが私の『選べる未来』だった」
「で、欠けた?」ソフィアが静かに訊ねる。彼女の瞳は普通よりも鋭く、真実を探ろうとする。
レイナは頷いた。記憶の端で、まだ濡れているかのような日がちらついた。あの夜のことだ。村の子が火から救えないと知ったとき、彼女は自分の規則を破ろうとしていた。子の意思を奪う可能性があると分かっていたが、あまりにも痛ましく、強引に道を作ろうとした。その瞬間、掌の札がひび割れ、すうっと細い裂け目が広がった。だがその時の感覚はまだ曖昧で、断片が抜け落ちるように消えていた。
「私、過去に一度だけ——」レイナは詰まった。「そのとき、誰かの運命を代わりに掴んだ。結果は、救えた人がいた。しかし代わりに、私の選択肢がひとつ減った。今、その代償が目に見える形で現れた。札が欠けた」
ケインは唇を噛み、反応をまとめるように言った。「つまり今、レイナは選べる未来がひとつ減った。だが今日は——サラを救えた。それは、君たちが自分たちで動いたからだろう」
マルコが首を振った。「我々の動きが原因で札が欠けたのか? それは理屈に合わない」
「いや、違う」ソフィアが静かに首肯した。「レイナの能力は個別の行為に反応する。仲間の行動が結果を生んだとしても、私たちがその結果を『人の意思を無視して強制した』と裁定した瞬間に、あの代償が発動する可能性がある。今朝、私たちが役人に強く圧力をかけて形を作った。サラ自身の声はあったが、私たちの手続きの方が強く働いたと役人が判断すれば——」
「判定は、当事者たちの意志で決まる」レイナが続ける。「それが私のルールだ。だからこそ、代償の線引きが必要だと思う。誰かを救うために私の力を使う時、どこまで『私たちが決めてよい』のかを一緒に決めたい」
テーブルの上で、同意書の端が風にそよいだ。その紙の上に署名した名前たちが、今も彼女たちと同じ空気を呼吸しているように思えた。仲間たちの表情は一様に硬い。誰もが勝利の余韻を喜びたいのに、欠けた札がすぐそばに浮かぶ不吉さを感じていた。
「具体的には?」ケインが諦めずに問い詰める。「どんな線引きだ?」
レイナは一度深く息を吸い、静かに数を挙げた。「第一に、読み替えは必ず当事者の明確な同意を得ること。第二に、締切の前夜や極端な緊急事態においても、第三者の強制は厳に慎むこと。第三に、もし私がどうしても判断を下さなければならない時は、他の誰か一人、信頼できる人間の賛同を得ること——少なくとも一人の反対で成立しないとすること」
「民主的すぎるだろ、それ」マルコが苦笑した。「我々が迅速に動かなきゃいけない場面だってある」
「それはわかってる。でも、私の代償は私だけの問題じゃなくなる」レイナの声には切迫が混じっていた。「一つの選択肢を失うことは、私が未来で誰かに謝る機会を奪うかもしれない。私には謝りたい人が一人いる。最初からこれを一人で背負うつもりだったけど、もう一度だけ言う。私の力をどう使うかは、私たち皆の問題よ。一緒に線を引くべきだ」
ソフィアが黙って頷いた。「それは正しい。あなた一人が背負うべきものじゃない。私たちは仲間だ」
やがて部屋の扉が静かに開いた。午後の光とは別の、冷たい空気が入ってきた。役所の走り書きの入った封筒が、図書館の受付から届けられた。マルコがそれを受け取り、手早く封を切る。紙片は厚く、官印が押してある。
「管区長からだ」マルコが読み上げる。「『読み替えに起因する異議申し立てが増えているため、王都より臨時調査団が派遣される。現地での勝手な法解釈は一切禁ずる。公的手続きは停滞を余儀なくされる』――ええと、要するに我々のやり方が注目されてしまったようだ」
言葉の最後に、重い沈黙が落ちる。図書館の棚の影が長く伸び、誰の顔もその影に飲まれるようだった。臨時調査団は、彼らの活動を根本から動かしかねない。しかも調査団は、読み替えに関して新たな基準を設けるだろう。つまり外部が「線」を引いてくる可能性が高い。
「王都が介入するとなれば、私たちの方法は危険に晒される」ケインが低く言った。「今こそ自分たちで線を引く