図書館の悪役令嬢は大切な人に謝る 第10話「第9章」
照明が落ちる。天井からぶら下がった多層の燭台が一斉に暗くなり、図書館の肩より高い書架の影が一つまた一つと濃くなっていく。空気は低く重く、古い紙の匂いとろうそくの煤の匂いが混じる。観衆のざわめきが厚い絨毯に吸われるように薄まり、床板の軋みだけが生々しく耳に残った。
照明が落ちる。天井からぶら下がった多層の燭台が一斉に暗くなり、図書館の肩より高い書架の影が一つまた一つと濃くなっていく。空気は低く重く、古い紙の匂いとろうそくの煤の匂いが混じる。観衆のざわめきが厚い絨毯に吸われるように薄まり、床板の軋みだけが生々しく耳に残った。
ステージの中心に置かれた高い台座の周りに、審問の席が半円を描いている。保守派の長、マルセル伯爵の顔が鏡のように照明の黒を映していた。彼の前には、祈るように両手を組んだ書類の束。対面にはレイナ――赤い外套の裾を床に引きずらせるその姿。胸の鼓動が手のひらで確かめられるほどに近い。
「この場は、公の合意と法の下にあります」と伯爵の声が弾く。石造りの梁に言葉が反射して戻ってきた。「図書館で行われた、いわゆる『合意読み替え』は――安易な民意改竄に他ならぬ。制度は連綿と続く。我々は、筋目を保つためにここにいるのだ」
レイナは息を吐いて、台座の前に歩み寄った。彼女の手は無言で古い羊皮紙の束を掴む。そこにきっちりと挟まれているのは、彼女がいつも持ち歩く小さな索引帳だった。表紙は擦り切れ、角が丸い。彼女は自分が何を賭けられるかを知っている。
「安易、ですか」彼女の声は低いが、図書館の静寂に澱のように広がった。「私たちは安易に人の意志を奪ったのではなく、当人たちの言葉を形にしただけです。ここにいる全員の了解のもとで――」
照明がさらに落ち、会場の空気が凝縮する。審判席に座る老貴族の顔だけが斜めのスポットライトに浮かび上がる。演出だと嘲笑う者もいるだろう。だがレイナは舞台装置を利用しているのではない。スポットは彼女の決断を助けるためのものでもあった。観衆は一人ずつ、目に光を取り戻していく。
「それを示したい」レイナが短く言うと、隣に立っていた図書館の学芸員、マリスがすっと前に出た。彼女は薄い手袋をはめ、指先に小さな鍵をはめている。髪にはまだ図書館の埃が微かに付着しているのが見て取れた。マリスは図書館そのものの匂いをまとった人間だった。
「ここで、証を立てます」マリスの声は震えない。彼女は自らの胸元から密封された古文書を取り出した。封蝋は黒に退色し、そこに押された印章はもう識別できないほど擦れている。それは、図書館の合意手続きに関する、原案のひとつだった。
「これは、合意読み替えを正当化する根拠にはならない、という保守派の主張に対する反証です」とマリスは言い、中の一枚を取り出して広げた。羊皮紙の端がかさりと音を立て、蝋燭の光が文字の縁を追った。客席の一角から、誰かが息を呑む音が聞こえた。
レイナは自分の力の枠組みを頭の中で確かめた。文書を読む。規定と精神を探り、当事者全員の合意が確認されれば、当該条文の読み替えを「交渉」することができる。ただし、自分が一方的に他人の運命を決するような読み替えを行えば、自らの選択肢が一つ減る――その規定は、彼女が最も恐れるものでもあった。消費される「選択肢」は目に見えるものではない。だがレイナはその喪失を、手の感覚として何度も味わっていた。
保守側は読み替えの動作に対し、即座に異議を唱えた。「その文書は改竄された可能性がある! 真実はここにはない!」マルセル伯爵の声が跳ねた。旧い規定を守ることこそが秩序だと彼は言う。秩序を守るためならば、個々人の言葉など取るに足らぬ、と。
そこで、レイナは違うやり方を選んだ。彼女は台座の前に列を作るよう合図した。仲間たちが一人、また一人と前に出る。エイダは一歩前に出るだけで人混みの空気が震える。彼女の手は白い鞄を握りしめ、唇はわずかに震えていたが、顔は怯んでいない。
「私は、私のことを決める」エイダが言った。声は想像以上に確かなものだった。観衆の間にざわめきが走る。スポットライトが彼女の顔だけを白く照らし、細かな汗の粒までが光を受けて浮かんだ。エイダは机の縁に手を置き、視線をゆっくりと巡らせながら続けた。「誰かの筋書きの中の道具にされるのはもう嫌です。私の悲しみも、私の喜びも、私の選択も――私のものです」
ほとんど無音の中で、ある老婦人がハンカチを掴んだ。隣の青年は握り拳を白く光らせている。レイナは胸の奥で、彼らの反応が変わっていくのを感じ取った。保守派の雄弁は、その場の空気に浸透する、リアルな人間の声に溶けていく。
続いて、トーマスが前に出た。彼はかつてエイダの護衛を務め、無数の夜を共に明かした者だ。粗い掌で壇の縁を撫でながら、彼は言葉を選んだ。
「彼女は、誰かの代わりに生きている人間なんかじゃねえ。俺は傍で見てた。決断するまでのその間の苦しみを。自分のことを持て余す顔なんて、もう見たくねえんだ」
言葉は歯切れよく、簡潔だった。会場の緊張が少し緩む。次々と仲間が自分の体験と選択を語る。アレクシアは宮中の慣習に縛られた愛の話を、図書館の司書カレンは閲覧室で見た若い恋人たちの話をした。語られるのは、抽象的な権利論ではなく、生々しい選び取る瞬間の記憶であった。
それでも保守派は最後の切り札を切ってきた。古い印章と公式の文書を示し、「特殊条項――創設者の遺言に基づく封印」が存在すると宣言した。その趣旨は分かりやすかった。ある種の決定は「先祖と血統」という特殊な力に縛られており、図書館の合意のような後天的な読み替えでは動かせない──というのだ。大きな布を被せられた箱が、ゆっくりと台上に運ばれてきた。封が解かれれば、ここでの全てが無効になるかもしれない。
その瞬間、レイナの手が索引帳のページを強く押さえた。脈が耳に届くほど早くなり、掌に涼しい汗がにじむ。封印された条文は、彼女の力の核たる「合意読み替え」を否定する。ここで、もし彼女が一方的な読み替えを行えば、封印の力を直接ねじ伏せることになる。規則は明確だ。人の運命を強制する読み替えは、彼女が有する「選択肢」を差し出すことを要求する。それは、未来のどこかで彼女が取れるはずだった一つの道を、永遠に閉ざす行為だ。
「閉じるぞ」マルセル伯爵が低く言った。「なにより、読者の安心を守るため――お前のような小娘に過大な力があってはならぬ」
誰もが息を呑む。場の空気が凍る。レイナは一瞬、手を伸ばした。掌が羊皮紙の束に触れる。合意の輪へと文字を滑らせることは可能だ。だが彼女はその瞬間、体の奥底にひどく冷たい痛みを感じた。まるで小さな針が彼女の胸の中に深く打ち込まれ、そこから一つの糸が抜け落ちるような感覚――それは、これまでに彼女が「代価」と呼んでいたものだ。
レイナは索引帳をぎゅっと握り締めた。掌に伝わる紙の温度が変わった。指先の感覚が一瞬薄れ、次いで彼女がいつも心に留めていた一行が索引から消えた。確かにそこにあったはずの小さな書き込みが、白い痕跡だけを残して消滅した――「父に直接謝る」。それは、これまで彼女が胸に秘めていた約束の一つだった。指が震え、胸の中にぽっかりと穴が開いたような虚しさがやってくる。
その削げ落ちた痛みの中で、レイナは立ちすくんだ。代価は抽象ではなかった。選択肢は、彼女の生活や人間関係の輪郭を削り取り得る。もし今この場で、彼女が力を行使してしまえば、もっと大切なものを奪われるかもしれない――エイダに