料理の悪役令嬢は後継争いから降りる

料理の悪役令嬢は後継争いから降りる 第9話「第8章」

石造りの室内は、蝋燭の炎が揺れるたびに重々しい影を落とした。壁に掛かった紋章の金箔が淡く反射する。長机に並んだ椅子には「公正の査問団」と書かれた黒い帯を身に付けた審問官たちが座り、彼らの前には、厚い羊皮紙を何枚も重ねた訴状と、黒いインクのにじんだ筆跡が置かれている。紙の匂いと、古い木の床が放つ湿った匂いが混じって、室内は終始冷たかった。

石造りの室内は、蝋燭の炎が揺れるたびに重々しい影を落とした。壁に掛かった紋章の金箔が淡く反射する。長机に並んだ椅子には「公正の査問団」と書かれた黒い帯を身に付けた審問官たちが座り、彼らの前には、厚い羊皮紙を何枚も重ねた訴状と、黒いインクのにじんだ筆跡が置かれている。紙の匂いと、古い木の床が放つ湿った匂いが混じって、室内は終始冷たかった。

「料理会議は、王室の後継に関わる手続きを逸脱し、継承権の混乱を招くおそれがある。直ちに中止し、関係者の名簿を提出せよ」

審問官長の声は、低く硬い。彼は目の前に立つ一人の少女を見下ろしていた。髪は栗色、前掛けの端に粉がついている。ミリヤ・カステール。彼女は料理人でもあり、侯爵家の令嬢でもあった。今はただ一人、長く続く俯きでそれに応じていた。

肩越しに、厨房からの音がひとつ、遠くで聞こえる。金属が触れ合う音、野菜を刻むリズム、油が弾く小さな音。外では、仲間たちがまだ鍋に向かっているはずだ。ミリヤはその音を頼りに下を向いたまま、審問官長の言葉の端を拾った。

「法令第二百二条により、集会が後継に影響を及ぼす場合は、王室査問の許可が必要である。違反は公秩序の犯行と見なされ、関係者は断罪される」

余白に押された朱の判が、重々しく彼女の胸を叩いたような感覚が走った。断罪。彼女が一番避けたかった言葉だ。声を出す代わりに、ミリヤは自分の手を見た。指先には小麦粉と皿洗いの湯気の跡。いつもの仕事の指先。ここに立っていること自体が、無理をしているように感じた。

隣に立っていたエイルが、低い声で囁く。見ると、彼は小さな羊皮紙片を指で挟んでいた。眼鏡越しの瞳は真剣だった。エイルは学者で、古文書を扱う者――ミリヤが見つけられなかった瑕疵を見抜く眼を持っている。

「ここだ。二条の注記、旧版では『当事者』は会議の出席者に限るとある。査問の定義は、その『会議』に召喚された者にしか及ばない。外部からの査問団を即時に適用する条件は、ただし書きに依る」

エイルの指先が微かに震える。彼は続ける。声ははっきりしているが、室内の圧に飲まれてか。しかしその言葉が、ミリヤの中で針を振らせた。矛盾——制度の書き方自体に隙間がある。

だが審問官たちは、矛盾に目を向けたふうではなかった。彼らは既に「当事者」を第三者へ拡張している。常套のやり方だ。外部からの介入を正当化するために、意味を拡げてしまえば済む。そうして制度は力を持ち続ける。

「我々は、法律を運用しているだけだ」と審問官長は言った。「抜け穴と呼ぶのは自由だが、抜け穴が被告の逃げ道となれば処罰は免れまい」

ミリヤはその言葉に反発したい気持ちを押し込め、ただ首を振った。言葉で押し返しても、相手は紙と判と権威を持っている。だがエイルが示したのは紙の隙間だ。隙間は希望にも危険にもなる。

「当事者全員の合意が必要だ」——それがミリヤの能力の条件である。古い文書の矛盾を「読み替える」ことはできるが、行為は当事者の同意を必要とする。合意のない一方的な読み替えは、能力の禁止に触れる。それでも、禁止を越えた場合は代償が待っている──「自分の選択肢も一つ失う」という代償だ。

時間はなかった。審問官たちは挙証と審判を急ぎ、外では既に会議の記録を押収する隊が待機している。ミリヤの仲間は厨房に分散している。リタは鍋の火を手入れし、セヴァンは外の通路で門番を説得している。彼らに「合意」を求める余裕はゼロに近かった。しかも、合意は強制であってはならない。ミリヤが目指すのは「選択の場」であり、押し付けの合意ではなく、自発の合意だ。

エイルがささやく。だが彼の言葉には抑揚があった。

「法そのものの解釈を、その場で『書き換える』余地がある。合意が得られないのなら、読む側が一時的に『当事者』を再定義して運用制限を課せる。ただし、それは一方的な行為に当たる。代償は……」

エイルの唇が動く。誰もがそれを知っている。ミリヤはその代償を何度も夢想していたが、現実として迫るのは別物だ。代償は抽象的に語られ、現実の形で訪れる。彼女は最後に握っていた「自由な退き方」の可能性が、ひとつ消えるのを感じた。

公正な場を守るために仲間に負担をかけたくない――そう誓ったのは、誰の目にも見える決意だった。だが今、そのために仲間を危険に晒すわけにはいかない。ミリヤは深く息を吸った。冷たい空気が胸に張り付く。

「エイル、やるんですか?」

声は震えていたが、彼女は自分で決める必要があった。仲間に伏せることはできない。エイルは少し間を置いてから答えた。

「君の意図は知っている。だが今は……一時しのぎに過ぎないかもしれない。それでも、君が選ぶなら、俺は側にいる」

ミリヤは薄く笑った。笑いは湿っていた。彼女は言葉を拾う。自分で自分に問いかけるように。

「一つの選択肢を失ってもいいの?」

それは、彼女が目指す本来の目的に触れている問いだった。後継争いから降りるためには、「退く」自由が要る。だが彼女は、もしそれを放棄したら、どうやって制度を変えられるのか。仲間を束ねるために必要な自由まで手放してしまうのではないか。だが同時に、今この場で会議を潰されれば、仲間たちの意思が奪われる。

瞳の奥が熱くなった。ミリヤは手を伸ばし、自分の手のひらを見た。料理で鍛えたその手は、これまで多くの味を生み出し、誰かを慰め、また怒らせることもあった。今またその手で、選択の余地を一つ「締める」ことになる。

「しよう」

言葉は短く、静かだった。ミリヤはエイルに視線を送り、続けた。

「ただし、これは仲間に押し付けるためのものではない。勝っても負けても、私はこの結果を背負う。誰も、強制はしない」

エイルは頷いた。まるでそれが、祝福の合図であるかのように。彼はゆっくりとミリヤの前に羊皮紙を差し出した。そこには二百年前の筆致が残っている。字は枯れていたが、そこには法律の魂とも言える言葉の輪郭が残っていた。エイルは声を低くして読み上げた。古い文言が室内に鳴る。言葉と紙の接触する擦れる音。審問官たちがそれに耳を傾ける。

そしてミリヤは、ある形式を取って声を出した。能力を行使する際に彼女が行う「合意の儀式」は、普通は場にいる全員が参加して初めて意味を持つ。だが今回はその場にいる仲間全員からの明示的な賛同は得られない。代わりにミリヤは自分の内側の一つの意志を「代弁」させることを選んだ。自分の決断を、外在化する形で文書に刻むことで、法の読み替えを実行する──それが一方的な行為だとわかっている。

エイルの指が羊皮紙の一部を押さえ、彼女は言葉を紡ぐ。周囲のざわめきが大きくなった。蝋燭の影は揺れ、胸の鼓動が耳に届く。ミリヤはその瞬間、何かが自分の胸を打ち砕いて通り過ぎるのを感じた。冷たい何かが一枚、音もなく扉を閉めるようだった。

「これにて、審問の適用は——」と彼女が言い終えると同時に、審問官長の顔に軽い動揺が走った。彼の目の前で、羊皮紙の文字が一瞬、曇るように見えた。だがそれは錯覚ではなかった。法に要求される「当事者」の定義が、その場で――少なくともここでの手続きにおいて――再編された。即時の法的効力を示す印が揺れ、