料理の悪役令嬢は後継争いから降りる

料理の悪役令嬢は後継争いから降りる 第10話「第9章」

小さな路地の空気は、昼下がりの陽光と火鉢の蒸気で曖昧に揺れていた。鍋の底が焦げる匂いと、刻んだニンニクの刺激が混ざって、通りすがりの者の足を止めさせる。ソランは長い前掛けを腰で結び直しながら、台の上に並べた皿を片端から手際よく配った。鉄のフライパンが軽くカタリと鳴るたび、群衆の一部が息を呑む。

小さな路地の空気は、昼下がりの陽光と火鉢の蒸気で曖昧に揺れていた。鍋の底が焦げる匂いと、刻んだニンニクの刺激が混ざって、通りすがりの者の足を止めさせる。ソランは長い前掛けを腰で結び直しながら、台の上に並べた皿を片端から手際よく配った。鉄のフライパンが軽くカタリと鳴るたび、群衆の一部が息を呑む。

「はい、次は豆の煮込み。あったかいうちにどうぞ」
「噂の悪役令嬢の料理だって? 味見してみたいな」

子どもが声を張れば、年寄りが笑う。汚れた手のひらに皿を差し出すと、ソランは人差し指でソースをすくい、そっと指先をなぞる。軽い塩味と酸味が舌先を走り、人々の顔がぱっと明るくなった。料理はただ空腹を満たすものではなく、ここでは訊ねる手段だった。ソランは皿を渡すたびに、隣で小さな帳面に走り書きをしている。

「名前は?」と彼は訊き、相手の返事を素早くメモする。誰を断罪から救ってほしいのか、誰を裁かせたいのか──声は素直で、時に怒りを含んでいた。帳面には一つ一つ、同意の印が増えていく。料理によって集まったのは、加害者・被害者の二分法ではない、当事者たちの声そのものだった。

一方、屋敷の上の方では、カイが窓辺で腕を組んでいた。外の空気は遠く届くが、屋内の空気は濃密だ。彼の家族は既に日の内に揉め事を始めている。義兄は戸棚を開け、古い巻物を取り出して鼻先でふるい、母はティーカップを床に置いてからっとした声を出した。

「カイ、あなたが黙っているからこそ話が収まるのよ。免罪符として名を挙げてもらえば、我々は体面を保てるのだ」
「体面なんて、誰のためだよ」

カイの声は窓ガラスに反射して鋭くなる。彼は外を見下ろすと、下町の小さな集まりが見えた。ソランが手渡す皿を受け取る人々の列。カイは息を吐いて窓枠に手を置いた。

「いいか、俺は誰かの盾になるつもりはない。無料の赦し役なんて、最初から望んでいない」
「そんなことを言ってどうするつもりだ。家のためよ、カイ。お前が前に出れば──」
「家のため、か。俺は家のために肩代わりするために生まれたんじゃない」

カイは短く笑うと、家族の誰かがそっと差し出した紙を無造作に取った。それは家中の署名欄付の同意書だった。彼はペンを引き寄せ、しかしその先を止めた。窓の外で子どもが笑う声が聞こえ、カイは自分の筆を折り曲げるように握り直した。

「俺は、誰かの罪に代わって謝ることはしない。ただ、みんながどうするかを自分で決めるだけだ」

それは宣言でもあり、要求でもある。彼の言葉は家族の空気をざわつかせ、誰かの喉元に小さな刺を残した。

そのとき、文書室の扉が静かに閉まる音が聞こえた。ミリヤは一枚の羊皮紙をテーブルに広げ、指先で文字をなぞっていた。インクの匂いが彼女の鼻腔を冷たく満たす。古い制度文書の行間には、当時の権力者の言い分と、残されざるものたちの痕跡が同居している。ミリヤはページをめくるたびに、そこに隠れた矛盾を拾い上げた。

「同意がなければ読み替えはできない……」
彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。能力は、当事者全員の合意を得てはじめて力を持つ。だがここ数日、合意を集めるのは火に油を注ぐような行為だと感じていた。誰かの顔の色が変わり、誰かの手が震え、同意が偽りになりやすい。だからソランの料理会が必要だった。声を出させる場を作ること。そこに本当の合意が生まれる。

ノックもなしに、庁の使いが駆け込んできた。息が荒く、肩で息をする。

「ミリヤ様、下広場で今日、暫定判決が執行されます。手続きは整っています。……だが、対象者が控訴を望んでいて、正当な同意を得られていない」
「控訴の意思があるなら同意が無いのは当然だ。どうして執行を急ぐ?」
「上からの命令でして……時間がない、と」

ミリヤは羊皮紙を片手で抑え、他方で掌の内の小さな紙片を弄った。それは彼女がいつも持ち歩く、出自を示す徽章の証であり、同時に彼女の能力が働く際の触媒のようなものだった。多くの場面でそれは冷たく、無言の力を支えるだけだった。だが今回、彼女はその責任がどれほど重いかを肌で感じていた。

「私に時間をくれ」ミリヤは言った。「当事者全員の同意を集められるように、私が出向く。ソランに知らせて。下町で声を集めているはずだ──」
「それが……いえ、現場はもう、執行の準備が──」

使いは言葉を噛む。外では人々がざわめき始めている。命運が鐘と同じ速度で落ちていく。

ミリヤの胸の中で、何かがきしんだ。時間はない。しかも――もし彼女が何もせず、誰かが死ぬのを見過ごせば、自分の無力さが次の炎を生むだろう。彼女は能力の条項を思い返す。当事者全員の合意がない読み替えは禁じられている。しかし同時に、条項はこうも言っていた――「一方的な改竄は代償を伴う」。代償はいつも曖昧で、誰もはっきりと言わなかったのだが、ミリヤはその重みを知っていた。

外の通りから、ソランの声がかすかに聞こえる。人々が皿を持ち合い、何かを話し合っている。カイの声も混ざる。彼の拒絶の表明が人々の姿勢を変えたのだ。少しの間、ミリヤは耳を澄ませた。合意の種は確かに撒かれている。

だが、執行は待ってはくれない。外で足音が大きくなる。使いが額に汗を浮かべ、迫りくる現場の写真を思い描いているようだった。彼は最後に呟いた。

「もし、救えないなら……」

ミリヤは立ち上がり、深く息を吸った。羊皮紙の上に指の腹を置く。文字が冷たい。心の中で、秤を零させるように何かが揺れる。誰かがその場で死ぬのと、彼女が条項を破って一つの選択肢を失うのと、どちらが大きいのか。彼女の目は一点に定まった。

「私が判断する。だが、これは──」

言葉が震えた。彼女は当事者全員の同意を得る時間が無いことを宣言し、自らの手で運命を書き換えることを選んだ。条項に逆らう行為だ。だが瞬間、触媒が熱を帯び、像を結ぶように手の中で何かが音を立てて溶ける感触がした。

声が、どこか遠いところで冷たく告げる。「一つ、失われた」

ミリヤは胸の奥で何かが抜け落ちるのを感じた。足元に小さな重みが消え、左手首に巻いていた細い赤い紐がするりと落ちた。彼女はそれを拾い上げようとしたが、指先は震え、紐はぼんやりしている。紐は彼女にとって、一つの道筋を象徴していた。今、紐はただの布切れだ。

「違法な読み替え、ではない。あなたの行為は救済だが、代償を伴う」
使いの言葉は静かで、しかし切実だった。ミリヤは頷く。誰かの命が救われるために、自分はいくつかの可能性を失った。失ったのが何か。まだ明言できない。だが確かなのは、彼女の持っていた選択肢の一つが永遠に戸棚から出せなくなったことだ。

下広場では、彼女の声が権利書の文言を変えるだけで職務を果たした。その瞬間、拘束されていた者の手がほどけ、彼は涙混じりに地面に座り込んだ。群衆がざわめき、誰かが拍手した。ソランは鍋を持った手で拳を握りしめ、カイは家族の窓から遠くの空を見つめていた。

だがその夜、部屋に戻ったミリヤは、落ちた赤い紐を机の上に広げ、冷たい蝋燭の光の下で眺めた。紐の端には、かすかな刺繍の痕跡があった。かつて誰かが編み込んだ「離脱」の印か、それともただの飾りか。彼女はそ