料理の悪役令嬢は後継争いから降りる

料理の悪役令嬢は後継争いから降りる 第8話「第7章」

朝市の空気は湯気と香りで重たかった。魚屋の鉄板から立ち上る焦げ目の匂い、干し果物の甘酸っぱい香り、揚げ物の油が風に乗って鼻孔をつく。ミリヤは薄いマントを羽織り、籠に入れた小さな野菜を抱えて順路を進む。横をすり抜ける人々の手が、ひとつひとつ仕事の証を残していた。包丁を握る母の手、そっと赤ん坊の背をなでる手、行商人のしわくちゃに乾いた手。

朝市の空気は湯気と香りで重たかった。魚屋の鉄板から立ち上る焦げ目の匂い、干し果物の甘酸っぱい香り、揚げ物の油が風に乗って鼻孔をつく。ミリヤは薄いマントを羽織り、籠に入れた小さな野菜を抱えて順路を進む。横をすり抜ける人々の手が、ひとつひとつ仕事の証を残していた。包丁を握る母の手、そっと赤ん坊の背をなでる手、行商人のしわくちゃに乾いた手。

「ここはいい」マルタが小声で言った。マルタは大きな腕をした元厨房長で、今はミリヤの腹心の一人だ。目線で屋台の向こうの店先を指す。布に包まれた小さな鍋の蓋の隙間から湯気が漏れ、金属の匙がリズムよく打ち合わせる音がする。

「代表を探すの。上ばかりじゃだめだって分かってるでしょ」ミリヤは籠をぎゅっと抱え直した。料理会議の招集状はすでに書き上げ、封蝋を押した。だが招かれるのは形式上の代表だけでは意味がない。台所でご飯を炊く者、行商で売り子をする者、使用人として朝を早くする者――当事者の顔がそこにあるかどうかが大事だった。

屋台の列の端で、薄い布を被った少女が小さな皿に載せた揚げ物を差し出していた。指先には小麦粉の白い粉が残っている。ミリヤは立ち止まり、目を細めてその手を見た。「ユナ」と、マルタが囁いた。「その子は奉公人の子よ。家の掟で外に出ることすら難しい」

ミリヤはゆっくり膝を折り、ユナの目線と同じ高さになった。「美味しそうだね。お名前は?」

「ユ、ユナです」声はか細く、それでも雑踏のなかで確かに届いた。「売り物は全部家に入れないと。そう決まってます」

「決まりは誰が作ったの?」ミリヤは静かに尋ねた。「その決まりを変えられるのは誰?」

ユナは一瞬考えて、俯いた。「家長です。父さまが言うこと。……でも、私、ここで代表になるとか、そんなことはできません」

代表になれるかどうかは、古い家法の注釈に縛られている。注釈は、家が外に代表を出す場合「家長と成年の者の一致した意思」が必要だと定める。多くの使用人やその子どもは、成年であっても家長の許しがないと外の会合に出られない。ミリヤはそれが不公平だと感じていた。しかし、能力の条件がここに厳然と立ちふさがる――書面の読み替えは当事者全員の同意があってこそ正当化されるのだ。

「もし、あなたが自分の意思でここに出てくるって言ったら?」ミリヤは言った。「それを、家長が承諾しない――そういう時、私は文書を"読み替える"ことができる。けれど、みんなの同意が得られないとき、それは私の一方的な解釈になる。私が一方的に誰かの運命を決めれば、私自身の選択肢が一つ、消えることになる。それでもいい?」

ユナの瞳に、躊躇と切望が渦巻いた。「あなたの選択肢って……なに?」

「私の"立場を降りる"権利。あなたには関係ないことかもしれない」ミリヤはにがく笑った。でも、腕にある小さな銀の札を手で押し込むように握った。札は代々の家紋を刻んだもので、文字通り彼女の名前が記されたものだった。――いつか自分の意思で後継から降りるために用意された、形式上の証明。それが彼女の最も大切な選択肢の象徴であり、同時に自分が守ろうとしているものの象徴でもあった。

マルタの顔が曇る。「一つ失う、ってどれほどの代償なの?」

「戻らない」ミリヤは小さな声で言った。「一度失えば、取り戻せない。私が何かを奪えば(誰かの運命を一方的に決めれば)、同じだけの重さで私から何かがなくなる。それがルールだ」

市場の脇に、豪奢な衣服をまとった騎士風の若者が立っていた。彼の名はセラン=ヴァン。伯爵家の若殿であり、数週間前にミリヤを嘲笑した者だ。彼はにやりと笑って足を止め、若者らしい自信で彼女たちに近づいてきた。随行の侍従が荷車を引き、ひび割れた革の手袋から白い指先が覗く。

「悪戯な会を開くなら、せいぜい楽しくやりなさい」セランは口の端を吊り上げた。「だが覚えておけ、料理を理由に民衆を煽るつもりなら、我ら貴族の威信も守らねばならぬ。代表の中に奉公の者を入れるなど論外だ」

ミリヤの手がわずかに硬くなる。セランの声は薄く、だが刺さるものがあった。相手の侮蔑を跳ね返すのではなく、こちらの痛みをほじくるような言葉だ。彼の言葉に反応して、周囲の数人の視線が集まる。ユナは顔を伏せ、茶屋の天井から垂れる木製のランプの陰に隠れる。

「代表は自主的に選ぶ」ミリヤは答えた。「誰かが誰かを代表に"置く"のではない。自分で出たいと言う者を、伺うだけだ。もし『論外だ』と言うなら、それが誰の言葉か。あなたの意志か、家の掟か?」

セランの笑みは揺らいだ。彼は一瞬、言葉を失い、あとから薄い怒りを滲ませる。「家の掟だ。貴女ごときがそれを弄るなど」

その瞬間、遠くから馬の蹄の音がした。重い鎧を着た使者が群衆を割って入ってきた。使者は黒い羽飾りを帽子に挟み、顔に疲労が滲んでいる。手には羊皮紙を抱えており、それを広げると、はっきりとした王家の紋章が見えた。

「王都からの使いだ」群衆の一人がささやいた。空気が途端に冷たくなる。セランの顔がすうっと引き締まった。

使者は近づいてきて、ミリヤの目を見据えた。「ミリヤ・エデルン殿、近日中に王都より調査の監督が派遣される。非公式の会合が該当する場合、王により設置された『公的協議法』に基づき、会合の効力は王府の登録を経て初めて認められる。無登録の再解釈は法的に争われる可能性がある」

言葉は冷たかった。王府が目を光らせていると聞けば、貴族の中にもたまらず後ずさる者がいる。セランは短く笑い、しかしその目は鋭かった。「やれやれ。手続きを踏まなければならないのだな。だがそれは、我ら貴族の手で整えるべきであって、下層の者の参加は……」

ミリヤは深く息を吸った。王府の監視は、彼女の計画に致命的な遅延をもたらす。もし登録が必要なら、手続きを進める時間と官吏の賄賂が必要になる。だがその間に、庶民の話題は冷めるかもしれない。代表は不安を抱えたままになってしまう。

「私は、待てます」マルタが低く言った。「登録が必要なら、登録を待てばいい。けれど、今ここで声を上げることができる者がいる。ユナ、あなたはどうしたい?」

ユナは顔を上げた。小さな手に持った揚げ物の皿が震えている。「……私、行きたいです。代表になって、家の意見も言いたい。父は厳しいけど、私の声を聞いてはくれるかもしれない」

セランがふくれっ面で割り込む。「家の意見など、家の名誉と秩序に従う者以外には重みがあるまい」

ミリヤの胸の中で何かが弾けた。冷静に、だが決断は速かった。彼女はマルタの肩を叩き、ユナに向き直る。「私がやる。今、ここで書面を読み替える。王府の登録は必要だが、家内の同意という名の根拠が不在の時、私は――」

マルタが身体を寄せてきた。「止めなさい、ミリヤ。あなたの言う通りのルールだ。みんなの同意が無ければ、あなたの行為は一方的な解釈になる。代償は何より大きい」

それでもミリヤは顔を固めた。ユナの不安な視線、マーケットの中で働く者たちの潤んだ瞳。今、彼らが声を上げることを恐れている姿を見たくなかった。貴族の抵抗や王府の監視を理由に、声なき者の機会を奪うわけにはいかない。

ミリヤは手袋を外し、右の掌に