料理の悪役令嬢は後継争いから降りる

料理の悪役令嬢は後継争いから降りる 第7話「第6章」

台所の火の匂いが、夜の廊下まで追いかけてきた。焦げた糖分の甘さと油の苦みが混ざり、ミリヤの鼻腔を刺す。彼女は布巾を握りしめたまま、宴用の大広間の扉を押し開けた。中では銀のスプーンが列をなすように並び、壁の金槌の音が遠くで鳴っていた。今夜――というより、今宵の儀式は、候補者の一人を「断罪」するための舞台だった。

台所の火の匂いが、夜の廊下まで追いかけてきた。焦げた糖分の甘さと油の苦みが混ざり、ミリヤの鼻腔を刺す。彼女は布巾を握りしめたまま、宴用の大広間の扉を押し開けた。中では銀のスプーンが列をなすように並び、壁の金槌の音が遠くで鳴っていた。今夜――というより、今宵の儀式は、候補者の一人を「断罪」するための舞台だった。

燭台の光のなか、堅苦しい服を着た人々の顔は浅く、期待と恐れの混ざった影を落としている。壇上に座るのは、王宮の長官ソル・ターレン。長官は書類を折りたたみ、冷たい目でミリヤを見た。「ミリヤ・ヴェルテン。お前が来るとは珍しい。台所に戻るべきでは?」

ミリヤは肩越しに厨房の方角を見た。そこで今朝、彼女が生み出した災難の焼け焦げた皿を思い出す。焦げは誰かの罪を象徴してしまった。だが今、壇上に連れて来られているのは、ヴェルテン家の末端分家に属するリオラだった。リオラは震える手で古いレシピ帳を抱えていた。リオラの母が昔、王宮の「手順書」を半ば真似て作ったことが、今夜の罪状に結びつけられたのだ。

「断罪は手順に従って行う。手順に不備があれば、それは故意か過失かを定めねばならない。手順書の解釈はここにいる全員で決する」長官の声は儀式の文句のように磨かれている。だがその「全員」という言葉の重みを、誰も疑わない。

ミリヤは壇下を歩いていき、リオラの前に跪いた。「長官、ここでの決定を一つ、読み替えたい」彼女の声は穏やかだが、周囲の空気が引き締まる。読み替え――それは、彼女が人前でだけ行使できる技能、古文書の曖昧な文言を当事者全員の合意で別の意味に動かす術だった。万能ではない。誰かの運命を一方的に定めれば、彼女自身の選択肢が一つ消える。重要なのは「合意」。だから彼女はまず、場の同意を取らねばならなかった。

長官は眉を上げる。隣に座る裁判長が書面を差し出した。「合意を得ることが出来るか。得られなければ読み替えは無効だ」

ミリヤは深呼吸をしてから前に置かれた羊皮紙に手を置いた。周囲の者たちに目を移す。王宮の侍女ソフィアは一瞬ためらったが、すぐに頷いてミリヤの手にそっと触れた。バスティアン、王宮厨房の料理長も、腕組みをしたまま手を乗せる。長官は冷ややかな表情のままではあるが、式である以上参加の印を避けられない。リオラは震えながらも手を差し出した。合意が、輪となった。

ミリヤは自分の内側で言葉を紡いだ。古い言葉の縁を指で撫でるように、意味をずらす。羊皮紙の文字が薄く震え、油の光を帯びた。周囲の空気が一瞬、金色の膜のように固まった。だが、読替の際に彼女がいつも感じる痛みが、胸の奥に刺さる。選択肢の一つが抜かれていく感覚。細い糸が手繰られ、消えていく。今までならそれは後の代償だと受け止められた。でも今夜は、その痛みが単なる個人的代償ではなく、もっと大きな仕組みの一部であることを示した。

「この手順における『故意』と定義される行いは、意図的に記述と異なる調理法を用いた場合ではなく、既存の手順に故意の曖昧さを残した者の責任である」と、ミリヤは読み替えた。羊皮紙の文字列が、合意の輪から生気を帯びて変わる。場の空気が一斉に息を吐いた。これにより、リオラの罪は「過失」から「体制の不備」へと転化した。長官の眉が崩れ、貴族たちのざわめきが起きる。

だがその直後、ミリヤの体の中で何かが冷たく切断された。静かに、だが確実に。右手のひらに小さな痺れが走った。テーブルにある小箱の蓋が、目に見えぬ力で一つ、閉じられたような感覚。長官は冷淡に舌打ちをして書類を取り上げるが、彼の手つきは慌てていた。「読み替えを許す。だが――」彼は言葉を端折った。場にいる誰もが、その「だが」を感じ取る。

ミリヤは立ち上がった。リオラの肩を抱くと、リオラは嗚咽を押さえて顔を赤らめた。場の空気が微かな歓声と怒りに振れる。バスティアンはやれやれと息を吐き、ソフィアはじっとミリヤを見つめた。だが誰も、ミリヤが味わった切断の理由を説明しようとしない。彼女自身も、言語にする前にそれが何であるかを知った。

夜が深まり、人々が散り始めると、ミリヤは長官の不在を見計らって王宮の下層へと足を運んだ。書庫の扉はいつもより緩く、誰かの忘れ物がそこに残されているようだった。燭台の火が跳ね、棚に並んだ羊皮紙の端が小さな音で震える。彼女は今、読み替えの代償が個人の選択肢を消費する以上の意味を持つかもしれないと勘づいていた。台所の手順書も、断罪の文言も、同じ書庫の別の棚にあるはずだ。

奥深く、埃が積もった架に足をかけると、古い地図の束の間に、小さな箱が挟まっていた。蓋に押されたのは、見覚えのある家紋――ヴェルテン家の印章だ。指先で蓋を押すと、内部に薄いワックスの印と、複数の細い紐が並んでいる。紐の先には小さな札がぶら下がり、それぞれに「選択肢」とだけ書かれていた。ミリヤは凍りついた。自分が消費した何かが、ここに繋がっている。

その時、背後から静かな足音が聞こえた。長官ソル・ターレンが立っていた。彼の顔はいつもの冷笑ではなく、どこか疲弊している。「驚かせたかもしれないが、君に見せるつもりだった」と彼は言った。長官は棚の一段に手を伸ばし、別の箱を引き出した。そこには、宴で使用された手順書が一冊、そして複数の封印された文書があった。「宮廷は長年、秩序を保つために不確定性を残してきた。断罪劇はその手段だ。誰かを選んで責めることで、共同体は罪を共有し、暴走を防ぐ。だがその背後で、選択肢はこうして管理される」

ミリヤは札に刻まれた小さな字を読み続けた。数は減っている。彼女が行使した読み替えは、一つの札を消費していた。だがそれは単なる会計ではない。長官の言葉が続く。「読み替えを行えば、その分だけ君の『退く』権利は狭まる。制度はそのように作られている。誰かが制度を歪めれば、代わりに別の人が引き受けねばならぬ。均衡だ」

「それがこの宮廷のやり方だったのね」ミリヤは低く呟く。怒りと新たな理解が混ざり合う。手順書の曖昧さは偶然ではなく、故意だった。焦げた皿も、捏造された過失も、秩序を保つための装置にすぎない。彼女が助けたリオラもまた、同情されて救われたのではなく、ただ一つの代償を別の形で消費したに過ぎないのだ。

長官は箱を閉じ、鍵をかける。「君はこの制度を変えたがっているようだ。だが選択肢を消費するたびに、君が望まぬ鎖を増やすことになる。転げ落ちるように救いの連鎖を築いてはならぬ。あるいは君が最後の一つを使い、すべてを白紙に戻すかだ」

ミリヤは箱の紐を撫でた。手先に残る冷たさが気持ち悪く、胸の奥の痛みは確かに続いている。リオラの無罪は奪われた代償によって成り立った。それを知って、彼女の決意は変わった。個人がひとつの選択を失う代わりに、誰かが永遠に負わされる形を放置するわけにはいかない。

「私一人が選択肢を消して解決するつもりはない」ミリヤは言った。声は以前より強い。長官は眉をひそめる。ミリヤは箱を隣の机に置くと、ロウソクを掴み、書庫の窓から外を見た。王宮の塔の向こう、夜明けの前の薄い青が始まっている。彼女はゆっくりと仲間の顔を思い浮かべた。ソフィアの真面目さ、バスティアンの怒りっぽ