料理の悪役令嬢は後継争いから降りる

料理の悪役令嬢は後継争いから降りる 第11話「第10章」

朝の風が回覧板を揺らした。薄黄色の紙片は焼印のように何度も折りたたまれ、広場の石段に座る人々の膝の上を回っていく。ミリヤは紙を開いた。ページ中央に描かれた一枚の挿絵が目に刺さる――皿をひっくり返す小さな女の子、脇に並ぶ文字は辛辣だ。鍋の焦げ跡が拡大され、彼女の過去の失敗が喧伝されている。

朝の風が回覧板を揺らした。薄黄色の紙片は焼印のように何度も折りたたまれ、広場の石段に座る人々の膝の上を回っていく。ミリヤは紙を開いた。ページ中央に描かれた一枚の挿絵が目に刺さる――皿をひっくり返す小さな女の子、脇に並ぶ文字は辛辣だ。鍋の焦げ跡が拡大され、彼女の過去の失敗が喧伝されている。

「またか」

シアンが隣で唾を吐くように紙をめくる。彼の指には昨日磨いたばかりのカトラリーが残る。小さな鉄の感触が指先に冷たく伝わる。周囲の視線が一斉にミリヤへ向く。誰かが鼻で笑った。市場の香り、煮込んだスープの匂い、揚げ物の油の匂いが混じって、嫌な熱が喉を満たす。

「宮廷の言い分は決まってる。料理の失敗は性格の証明だってさ。次は公的な断罪かもしれない」

レノが低く言った。彼は王都へ食材を納めることで生計を立てる地方の料理人だ。頬に入った小さな包帯が、先日の騒動の代償を語っていた。ミリヤは包丁を束ねた紐をぎゅっと握りしめ、皮膚の熱を感じた。

あの紙片を作り、撒いて回すのは中央の官僚たちだ。彼らは制度という名の筋書きを使い、人々の人生を紙の上で整列させる。ミリヤは自分がその一役を押しつけられたことをまだ許していなかった。だが今は、許しよりも実務が必要だ。

「使うか?」とシアンが訊いた。彼の声は静かだが切迫している。

ミリヤは視線を下げた。彼らが期待するのは、彼女が持つ妙な才能の一つだ。古びた制度文書の矛盾を、当事者全員の同意を取り付けることで読み替える――それが彼女の“能力”だ。紙の文言を裁定の形で塗り替えるわけではない。全員の承諾を得て、歴史の一行を別の向きに置き換える。それは奇跡に近いが、条件と代償があった。

「一方的に誰かの運命を決めれば、自分の選択肢が一つ消える――覚えてるでしょ?」

それを言葉にするだけで、空気が冷たくなる。ミリヤの左手の小指の先が、ほんの少しだけ痺れる。過去に彼女は一回、その代償を払った。あのとき、彼女は一村を救うために単独で読み替えを行い、確かに人々の生活は助かったが、その代わりに「ある選択肢」を失った。説明すると長くなるが、噛み砕けば「自分の手で自分の道を完全に閉ざす選択をする権利」が一つ減ったのだ。

「もし――自分でこの告発を潰してしまえば」ミリヤは言葉を切った。「私は、後継争いから降りるために取っておきたい道を失うかもしれない。今は、それを使うわけにはいかない」

レノの顔に怒りが走る。「だとしたら、あの連中に好き放題させるのか。彼らは公共の場であんたを糾弾している。黙って見ているだけでいいのか?」

「黙ってなんかしていられない。だから別のやり方を探すの」ミリヤは言い切った。手にした回覧板を握りしめ、紙のざらつきを爪の先で感じる。思いつめた顔が、周囲の雑音をふっと遮った。

その時、近くの子供が駆けてきて、小さな紙袋を差し出した。中には小さな印刷物が十枚入っている――地方の一領主、カルタル伯の裁定通知の写しだ。栞のように押された蝋印が薄く崩れている。ミリヤは一枚を引き抜き、文字を追った。

「――古文書第十一章、条項二。文言の曖昧さが認められる場合、領主は地方慣習を根拠に、住民の合意を得て当該規定を解釈する手続きを行い得る。これをもって、中央の裁定に先立つ独自の合意手続きを認めるものとす」

声が消えた。周りのざわめきが一瞬止まる。太陽が蝋印の端に当たり、淡い光を投げた。シアンの手が震えているのをミリヤは見逃さなかった。

「つまり、地方の領主が住民の合意を基に、曖昧な文言を読み替えていいってことか」レノが呟く。

「それは、私の能力がもっとも使いやすい形だ」シアンが続けた。彼の瞳に火が灯る。「中央が強引に筋書きを押しつけようとするなら、各地で合意手続きを広げていけば、彼らの独占を崩せる。文書の隙間をあちこちで埋め直していくんだ」

頭の中で、ミリヤの能力の輪郭が少しだけ鮮明になった。これまでは「自分が読み替える」ことばかり考えていた。だがカルタル伯の裁定は、彼女の読み替えが当事者全員の合意によって行われることを要求している。だからこそ、当事者たち自身が声を上げることが不可欠になる。彼女はそれを一人で決める必要はない。むしろ、一人で決めれば代償を払う。ならば、彼ら自身に決めさせる仕掛けを作ることだ。

「集めよう。今日の夕方、この広場で公聴会を開く。隣接する村々にも知らせるんだ」ミリヤは指示を出した。言葉は短いが鉄のように重い。人々の顔が彼女を見て、安心と期待が混じった表情を返す。

準備は速やかだった。夕方、屋台の提灯が灯り始めるころには、広場の一角に木の簡易壇が組まれ、レノは自分の鍋で大鍋のシチューを作り始めた。香りが集まる人々の鼻を捕らえ、自然と耳は集まる。ミリヤは壇上に上がり、手元の文書を広げる。風が紙をめくり、彼女の長い髪を揺らした。

「カルタル伯の裁定を基に、ここで皆さんと一緒に問題を話し合いたい。私が言うことを決めるんじゃない。皆さん一人一人の意志が決め手になる」

誰かが声を上げる。「あんたを擁護するんか?」

「擁護ではない。自分たちのやり方で物事を決めるかどうかを、ここで示すんだ」ミリヤは答えた。表情には躊躇がない。彼女は自分で決められる道を守るため、他者の選択が行われる場を作ろうとしている。

人々は議論した。失敗を嘲る者、制度に従えと懸念する者、そして、何より自分たちの暮らしに直結する問題だからこそ自分たちで決めたいと主張する者。子供たちが鍋の縁に集まり、手を突っ込みそうにして大人たちに叱られる。レノが手渡す木の碗が回り、あたたかいシチューの湯気が皆を包む。味覚が緊張を和らげ、議論に色を添える。料理が、ここでは単なる象徴ではなく、参加するための媒介になっていた。

合意形成は容易ではなかった。何度も声がぶつかり、感情的になって怒鳴り声が上がる。だがミリヤは口を挟まず、必要なときにだけ資料を示し、古文書の曖昧な箇所を指で辿った。人々の言葉が一つずつ書き留められ、読み返され、異論が出ればまた直される。やがて、少数の反対は残ったものの、多数は「住民合意による地域判断」を支持するに至った。

夜が深くなると、広場の空気は変わっていた。以前なら誰かを一方的に断罪するための行列が出来るはずの場所で、今は自分たちの言葉が紙に刻まれていた。ミリヤの胸には、抑えきれない安堵と、それと裏返しの不安が同居する。シアンがそっと肩に触れてきた。彼の手は暖かく、力強い。

「これで終わりじゃない。中央は黙って見過ごすわけがない」レノが言う。彼の眼差しは遠くを見ている。

そのとき、広場の端で馬の蹄が鳴った。音は鋭く、夜の静けさを切り裂く。人々の視線が一斉に動く。黒い上着に銀の縁取りがされた使者が、馬から降り、札束のような文書を差し出した。蝋の紋章は、王都――中央の官署のものだ。

使者は無表情で言った。「中央より通告。カルタル伯の裁定に対する上訴を受理しました。全件の再審のため、明朝、首都より代表が派遣されます。貴女、ミリヤ・フォン・プラーデンは直ちに応訴するため上京の準備を命じられます」

紙の重さが手に残る。広場の人々の声が一斉に上がる――驚き、怒