町役場の広報課で遠距離を始めるふたりは恋より先に自分を許す 第9話「第8章」
編集室の蛍光灯は、午前二時の町役場の時間に馴染まない白さで部屋を満たしていた。机の上には未だ湯気の立つ紙コップと、乾いたはんだの匂いがかすかに混じったコーヒーの残り香。窓の外、役場の裏通りを走る車の灯りがすっと流れるたびに、透は画面の中の色彩を確かめるように瞬きをした。
編集室の蛍光灯は、午前二時の町役場の時間に馴染まない白さで部屋を満たしていた。机の上には未だ湯気の立つ紙コップと、乾いたはんだの匂いがかすかに混じったコーヒーの残り香。窓の外、役場の裏通りを走る車の灯りがすっと流れるたびに、透は画面の中の色彩を確かめるように瞬きをした。
彼が開いているのは、絵里と二人で作っていた市民紹介の短編映像のプロジェクトファイルだ。タイトルバーには「さくら祭PV_final_v3」と表示され、下のタイムラインには二人が書いたメモや、絵里が入れたナレーション原稿の小さな痕跡が散らばっている。共同で作ったものだけに残る――透の能力はそう働く。触れ合った時間、言葉を交換した瞬間、笑い声のリズムがフレームの隅に細く光るように見える。彼はいつもそれを「痕跡」と呼んでいた。
手をモニターに当てると、そこにあった光の痕がすっとひとつ、またひとつと指紋のように浮かび上がる。絵里の指先の震え、撮影の日に落ちた雨の匂い、テロップに迷った夜のため息――彼女が残した「感じ」が映像に付着しているのを、透は確かに感じ取れた。遠距離の月数が増えるほど、その痕跡は彼の支えになっていた。だが同時に、彼を苛むのは問いの熱だ。「彼女は本当に、私を選んでいるのか」──そう問いかける自分への恐れは、じわじわと膨らんでいった。
思えばここ最近、二人の間には小さなすれ違いが増えていた。電話の返事が遅くなる日、編集のデータが少しだけずれること、そして互いに顔を合わせられない時間の長さ。透は自分の頭を言葉で固めて安心したかった。絵里の痕跡を読み取り、そこに確固たる答えを押し込めれば、自分の不安は消えるだろうと錯覚していた。
画面上の一コマに指先を置き、彼はゆっくり息を吐いた。痕跡に寄り添いながら、心の中で言葉を定める。「絵里はどう思っている?」──問いの先に「私を想っている」という答えを希望こめて据える。決めつけるように、透は痕跡にラベルを貼るつもりで、思考を一点に収束させた。
その瞬間、編集画面の色が吸い込まれるように白くなった。タイムラインのサムネイルが一斉に消え、波のように画面全体がすべて白で満たされる。カーソルもメニューも、保存ボタンの光すら存在を失った。透の指先にあった温度が急に冷たくなって、紙コップのコーヒーが震える。画面の白は、喪失の静けさとして部屋を満たした。
「まずい……」声がこぼれた。喉の奥が痺れる。だけどそれは単なる動揺ではなかった。白くなった画面の向こう側で、彼の頭のなかの一塊の記憶が抜け落ちた感覚が広がっていた。編集の手順、保存のバックアップ名、昨夜までのメモ。そこにあったはずの細かな作業行程が、すうっと抜けていく。手帳のページをめくるように、あるページだけがちぎれてなくなったような不在だ。最も冷たいのは、忘れた内容が「何か重要な広報の手順」であるという予感だけが残ることだった。
慌てて外付けハードを繋ぎ直し、システムログを遡ろうとする。指が震え、キーを打つリズムが乱れる。コーヒーを置いた手をひっこめきれずにぶつけてしまい、白い液体が明滅するモニターの下に垂れた。夜明けまでは余裕があったはずの期日が、彼の掌で薄くなる。
朝が来た。窓の外で通勤の足音が役場に近づき、編集室のドアをノックする音が連打で聞こえた。課長の松原が上着の襟を直して入ってくる。背中にはいつもより角度のある緊張。続いて出勤してきた加納がスマートフォンを握りしめ、眉を寄せる。
「透、この投稿、違う日付で上がってるぞ。さくら祭のスケジュールが──」加納が画面を開くと、公開された動画の説明欄に誤った開催日が記されていた。市民の反応がすぐに集まり、問い合わせが舞い込んでいる。松原の顔に血が上る。
透は言葉が出ない。どう説明すればいいのかがわからない。言葉の代わりに、透は昨夜の白い画面の残響を口に出してしまった。「痕跡を……深掘りしようとしたら、消えたんです。で、その代償で編集の一部を忘れました」。言い訳にもならないその告白に、加納が目を見開く。松原は一瞬沈黙して、そして低く笑ったように見えた。
「仕事のミスをする理由が何であれ、今は対応だ。被害を最小にする手順を回せ」彼の言葉には叱責の厳しさと、現場の重さが混ざっていた。加納は即座にウェブ管理課に連絡をとり、投稿の非公開を依頼する。広報課の他のメンバーも自分のデスクから動き出し、問い合わせ対応のテンプレートを準備した。誰も透の告白の是非を問わず、ただ被害の拡大を防ぐために動いた。彼らの選択は自律的で、透が想像していたような非難だけではなかった。
その午後、編集室の空気は重く、だがどこか暖かかった。仲間が手を差し伸べる中で、透は携帯を握りしめた。画面には絵里からの着信がある。遠距離の時間が生んだ唯一の安心の音色だ。彼は通話ボタンを押し、耳に受話音を当てる。距離を越えた声は、思いのほか落ち着いていた。
「どうしたの、朝からそんな声で」絵里は静かに言った。画面の先の彼女も仕事をしているらしく、洗濯機の回るんだかる音が小さく聞こえる。
透はためらいながら、白い画面のこと、そして忘れた記憶の感触を告げた。説明の途中で言葉が詰まり、彼女に何をどう言えばいいのかわからなくなる。だが絵里は歩み寄るように、ゆっくりと語ってくれた。
「私、さっき編集してるときに、何かが抜ける感じがしたの。あなたと一緒にいたはずの温度が、急に空気だけになったみたいに。遠くに行っちゃう人の影って、こういう風なのかって思った」彼女の声に怒りや非難はない。むしろ、驚きと心配の混ざった静けさだ。
「だから、無理しないでほしい。急いで答えを求めないで。私たちが作ったものには、絶対に二人の跡が残る。消えるようなものは、一緒に作るってことじゃない」絵里はそう言って、短く息を吸った。「透が私のことを確かめたくなる気持ちはわかる。でも、決めつけるような見方をすると、その跡は白くなってしまうんだよ」
透は電話の向こうで肩の力を落とすのを感じた。彼女が自分のいじましい試みに気づいていたこと、その上で責めないことに胸が痛む。遠距離が生んだ孤独を埋めようとして、自分が関係の表面を剥がし始めていたのだと気づく。
「ごめん。俺が勝手に焦って……」透は声を震わせながら言う。彼女の返事は短かったが確かな支えを含んでいた。
「急がないって、約束しよう。急いで答えを出すより、小さなものを一緒に積み重ねる方がいい。仕事でも、私たちのことでも」絵里の声は揺れない。
透はうなずくふりをして、画面の前で笑った。笑いがひとつ、乾いた編集室に戻る。「約束だ。急がない、って言葉を、もっと守る」彼はそう言って、また一つ、息を整えた。
だがその直後、絵里の声に微かな躊躇が混じった。「ねえ、言いにくいんだけど……私、実は来月、こっちの自治体のイベント担当から誘われてる。正式な話ではないんだけど、可能性はあるの」受話機越しの彼女の声が少し高くなる。選択肢はそこにあるが、確定してはいないという熱を含んで。
透の手が冷たくなる。電話の向こうで洗濯機の音が消え、彼女の呼吸だけが聞こえる。「もし向こうに行くことになったら、会える機会は増える