町役場の広報課で遠距離を始めるふたりは恋より先に自分を許す

町役場の広報課で遠距離を始めるふたりは恋より先に自分を許す 第8話「第7章」

fluorescentの白が机の上でざわついていた。朝の光ではない、残業から明けた薄い光だ。透はカップの中で冷めた黒いコーヒーをひと口含んでから、広報課の共有フォルダをスクロールした。タイトルが並ぶ中に、昨日の夜遅くにアップされた一枚の画像ファイルがあった。結城裕子の撮ったスナップ。路地の角に設置された即席の「聞き取りボックス」――段ボールにビニール屋根、手書きの案内。「あなたの声、ここに」。文字は雑で、しかし目を引く。

fluorescentの白が机の上でざわついていた。朝の光ではない、残業から明けた薄い光だ。透はカップの中で冷めた黒いコーヒーをひと口含んでから、広報課の共有フォルダをスクロールした。タイトルが並ぶ中に、昨日の夜遅くにアップされた一枚の画像ファイルがあった。結城裕子の撮ったスナップ。路地の角に設置された即席の「聞き取りボックス」――段ボールにビニール屋根、手書きの案内。「あなたの声、ここに」。文字は雑で、しかし目を引く。

その横で、山根が書類の山に肘をつけ、眉を寄せて透を見ていた。彼のネクタイはきつく結われ、手には役場のゴム印。彼が口を開くと、オフィスの空気がピンと張った。

「勝手にやるのはまずい。許可が要るだろう、透君?」

透は画面から目を離し、火照る手をテーブルの縁に押し当てた。指先に昨日の夜のことが残っている。遥と二人で構想した「写真と言葉の置き場」。遠距離になってからも互いの手が残るようなものを作ろうと約束したのだ。それが、共同制作の中心であり、透にとって――少しだけ、使える「痕跡」を生む場でもあった。

「許可はまだ、だけど……」透は言葉を探した。結城は自分で動いた。市民が声を出せない時間が延びるのを待っていられなかったのだ。彼女の声はいつも早い。指先がキーボードを弾く音が、奥の会議室から漏れてきた。

山根はため息をつき、書類を両手でまとめた。机の上のクリップがカチリと鳴る。彼は制度の擁護者だ。安定を選べば、少しの不満を押し込めることもできる。そのほうが、目に見える混乱は起きない。だが、目に見えないものは、いつの間にか大きな亀裂になっていることを透は知っている。

結局、その日の午後、結城は許可も得ずに聞き取りボックスを広場に置いた。彼女は同僚三人を引き連れ、ポスターを貼り、スマートフォンで生中継を始めた。通行人が足を止め、笑ったり眉を寄せたりしながら紙の箱に言葉を投げ入れる。子どもが落書きをして、年配の男性が昔話を囁いた。映像は小さな熱を伝えていた。

透はそれを背中越しに見つめていた。心臓が締めつけられる。共同制作には、遥の存在が不可欠だった。遠距離の間も、遥が自分の行為を受け止め、返してくれると信じることで、透の「痕跡」は形を成していた。痕跡は万能ではない。二人で一つの物を作るときだけ現れる。しかも、その痕跡は、決めつけるほどに消えていく。不確かさを許せば、ほのかな残滓としてそこに残るが、意味を固定しようとすれば霧のように消える。

結城が持ってきたのは、透が昨夜まで作っていた「紙の声パネル」だった。紙に添えられた糸、写真の間に差し込まれた小さなメモ。遥と透が遠隔で重ねた構図。透は結城に、これはまだ正式な公開物ではないと伝えたかった。だが、結城の目は熱を帯びていて、動きが止まらない。

「透さん。今がそれを必要としてるんです。役場が何もしないうちに、町の人が自分で声を取り戻してるんです」

結城は言い終えると、紙の角をつまんで広場へ出て行った。透は追いかけようとしたが、山根が腕を掴んだ。

「君が関与してると、もっと厄介になる。公式の手続きなしで市民情報を扱うのは問題になるぞ」

山根の声は低く、規則の重さだけを伝えた。透の胸の中で、なぜか小さなものが崩れていく感触があった。自分が守ろうとしているものを、制度のせいで守れなくなる。だが、それは山根の言葉のせいだけではない。遥がそこにいないこと、二人でじっくり作れないことが、自分自身を萎ませていた。

広場の中継は伸びて、スクリーン越しに事務所のモニターに流れてきた。年配の女性が紙片を手にして、震える声で「もっと聞いてほしかったのよ」と言った。画面の音は掠れ、でもその言葉の端に真実があった。透は息を詰め、手を差し出して紙パネルに触れた。遥と合わせて指先を当てたつもりで、集中する。共同の行為を呼び起こそうとした。

だが、焦りが入っていた。遥は明日の夜ようやく帰省できると言っていた。時間が足りないという焦りが、透の中で意味を決めつける方向へと傾かせる。「これは市民の悲哀だ」「これを訴えよう」――透ははっきりさせたくて、指の圧を強めた。紙の表面に浮かぶはずの、遥と自分で重ねた痕跡を呼び出そうとして。

その瞬間、紙の目に見えぬ筋が走るような音がした。ほんの一瞬、写真がにじみ、文字の一部が白く消える。中継の画面で、紙片の写真が揺れて二重に映る。通りの人々がざわつき始め、コメント欄には「操作臭い」「役場のプロパガンダだ」といった言葉が流れた。痕跡が、透の強引な意味づけによって消えかかってしまったのだ。

「透、なにを――」結城が画面越しに叫び、手を伸ばした。透は自分の手を引っ込めた。手の甲に細かな冷や汗を感じる。共同制作が壊れたのだ。遠距離の不安の代償が、目に見える形で現れた。壊れたのは紙だけではない。コメントの波が義務と批判を呼び、数時間後には、市議からの問い合わせ、上司からの注意、そして山根の冷たい視線が差し込んだ。

「あなたの責任でこうなったんだろう?」と山根が言った。言葉は刺さる刃のようで、透は言い返せなかった。結城は怒りで頬を上気させ、しかしその怒りは誰かの選択を奪ってしまったことへの自責に変わっていった。ボックスは撤去され、聞き取りは止められた。住民の声は一度窓の外へ放たれたが、すぐに閉じられた。

その夜、透は自分の机の上で紙の欠片を眺めた。紙の端が尖って、そこに残ったインクの滲みが、かつての会話の痕跡を無理やり象ったように見える。遥に電話をかける。コールが三回鳴って、留守電に切り替わった。遥の声が聞きたかった。遠くで笑う声、彼女が作業する小さな音、二人で交わした不確かな約束。それが今、透の前で粉々になって見える。

気づくと、佐富麻由が残業室のドアをノックしていた。彼女は普段は中立の記録係で、必要以上に波風を立てないタイプだ。だがその夜は違った。眼差しが硬い。彼女は紙の破片を手に取ってゆっくりと透に差し出す。

「これ、透さんのせいにして終わらせるの、私は嫌です」佐富は言った。声に震えはない。彼女は自分が独りで動くのをためらったが、今日はためらわなかった。「結城さんは間違った形で動いたかもしれない。でも、動かないで済ませるほど、私たちの仕事は安全じゃない。市民の選択を奪ってしまう仕組みがあるなら、私たちがそれを守れなかったってことになる」

透は動けなかった。胸の奥で、孤立と責めの渦がうずく。それでも、佐富の手が自分の手に重なった。彼女の掌は温かく、指先に力が入っていた。

「私は、明日、資料をまとめて議会の委員に配ります。あなたが行けないなら私が行く。透さんは……」佐富は少し言葉を止め、透の目を見つめた。「もし必要なら、遥さんに会いに行ってください。あなた二人で、ちゃんと一緒に作ってください。遠距離で出来ることの限界を、私は見たい」

その言葉は透の胸に直に刺さった。仲間が自主的に動いた。結城は現場で身を投げ、佐富は議会へ情報を持って行き、山根は制度で蓋をしようとした。自分はその間に取り残された。孤立した感触は冷たかったが、同時に佐富の差し出した手が、救命浮きのように感じられた。

遥に会うことは、仕事か