町役場の広報課で遠距離を始めるふたりは恋より先に自分を許す 第10話「第9章」
深夜の広報課は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。蛍光灯の明かりが薄い紙の上で滑り、パソコンの画面だけが淡く顔を照らす。透はコーヒーの冷めかけた液面を指でかき、画面の片隅に表示されているスコア表を何度も見返した。緑の数字が絶えずスクロールし、町の各地区名の横に点数を打ち込んでいく。外からは、スコア会社の宣伝動画の低い音が流れているように聞こえた――街の良さを数値化して地域活性化に結びつけるという、大げさで滑らかな声。
深夜の広報課は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。蛍光灯の明かりが薄い紙の上で滑り、パソコンの画面だけが淡く顔を照らす。透はコーヒーの冷めかけた液面を指でかき、画面の片隅に表示されているスコア表を何度も見返した。緑の数字が絶えずスクロールし、町の各地区名の横に点数を打ち込んでいく。外からは、スコア会社の宣伝動画の低い音が流れているように聞こえた――街の良さを数値化して地域活性化に結びつけるという、大げさで滑らかな声。
「どこまで侵食されてるかだな」隣席の真島が小声で言った。彼は紙の束を指で押さえながら、潰れたボールペンの匂いを振り払った。課長のデスクからは、すぐにでも書類が飛んできそうな空気が漂っている。
透の画面に、遠方の絵里の顔が小さく浮かんだ。画面越しでも、彼女の笑顔は幾分か疲れていた。彼女は窓際のカフェから――長距離の生活は、電話越しの少しの雑音を二人の間に置いた。
「今日の案、試してみる?」絵里が切り出した。声は画面越しでもはっきりしていて、そこにいつもの決断力が宿っていた。
「インタビューを集める。素顔をそのまま届ける。スコアの画面と交互に見せるんだ」透は画面のスコア表を指差す。指先が冷たく震えた。「ただし――今度は共同で作る。編集も、最後の仕上げも二人で同時にやる。遠距離だから、やり方は変えないといけないけど」
絵里は黙って頷いた。「共同制作の痕跡を残すってことね。あなたの、あの――見え方を活かすには、私も触れる必要があるってこと。」
透はそれを聞くと、少し眉を寄せた。彼の能力――共同で作られた物にだけ、二人の気配が残る映像や音声の残像を読むことができる。だがそれは万能ではない。決めつけるほど見えなくなり、急ぐほど共同作業は壊れる。ここ数週間、その歪みに何度も転んだ。説明するよりも、確かめる必要がある。
「今日は三件回る。森田さんの畑、浅井先生の教室、みきさんの喫茶店。みんな最初は怖がるだろうけど、素の声をもらえれば――」透が言いかけると、画面の向こうの絵里が手を挙げた。
「一つだけ付け加える。触れてもらうものを持っていきたいの。小さな紙片とか、プラスチックのカードとか。触れることで、その声が残りやすくなる。私たちが同時に編集するとき、私は遠隔からそのカードに『合鍵』を入れる。あなたが撮る映像に、私の意識が重なる瞬間をつくるの」
透は薄く息を吐いた。遠隔で「触れる」――それはリスクでもある。共同の痕跡を残すには、互いの判断を重ねながら、同じ意思を持って一つのものを作り上げる必要がある。絵里がそこへ割り込む時、遠く離れた彼女の決断が透の見える層を開く。だが、絵里の合鍵が先走れば、透の視界は白み、痕跡は消える。
「分かった。やってみよう。ただし俺は、誰かの言葉を勝手に断定しない。感情を決めつけると見えなくなるから」透の声は固かった。真島が向こうで眉を上げるのが見えた。
夜明け前、三人は古いフィルムカメラと安いデジカメを車に押し込んで出た。最初の訪問先、森田さんの畑は朝霧がわずかに残る。湿った土の匂い、草の端についた露の冷たさ。森田さんは首を傾げながらも、透たちを丁寧に迎えた。彼女の古い軍手に土の跡が残り、手の甲には年輪のようなしわ。
「何が知りたいんだい?」森田さんはストーブの近くで手を温めながら言った。その声はずっと村の冬を耐えてきたように落ち着いていた。
透はカメラを構え、ゆっくりとマイクを近づける。絵里の指示で、彼女には小さな紙片を渡した。紙片にはマジックで、透と絵里がそれぞれ別の側から書き込んだ小さなマークがある。触れる瞬間、二人の意識が微かに重なる。その感覚はいつもなら温かい拡がりで、映像の中に薄い光の指紋を残す。だが森田さんは最初、言葉を飲み込んだ。
「娘が東京に出て行ってねぇ。スコアってのがあるんだって? あの子、SNSでよく褒められてた。すごく喜んでたよ」小声でぽつりと森田さんが言うと、透は何かを急ぎたくなった。彼女の言葉は守るべきものだ。けれども――。
透は撮影の合間に、勝手に森田さんの感情を「誇らしい」と決めつけてしまった。彼の中で「誇り」という言葉が映像の上に先に貼られ、絵里の合鍵がそれに呼応する前に層が出来上がる。編集の段になって、問題が現れた。再生ボタンを押すと、森田さんの顔にかすかな光の輪が浮かぶはずだったが、それは薄く、ぼんやりと消えてしまった。まるで指紋に水をこぼしたように、痕跡は広がって溶けた。
透の頭に鋭い痛みが走った。眼の奥がチクチクと痛み、味覚は一瞬金属の味で満たされた。「決めつけるな」と、彼自身の身体が警告を鳴らす。絵里の声が通信越しに割れた。
「透、どうしたの?」画面越しの絵里は、手を顔の前に当てたまま固まっている。遠隔の合鍵が、不完全な状態で押されてしまったのだ。二人の共同編集に隙ができると、痕跡は一気に崩れ、残るのは空虚な映像だけになる。
「ごめん、無理して突っ込んだ。森田さん、ごめんなさい。もう一度…話を聞かせてくれませんか?」透は声を落とした。森田さんはじっと彼を見て、微かに頷いた。彼女が口を開いた瞬間、透は決めつけを崩し、自分の判断を置き去りにして彼女の言葉だけを受け止めることに努めた。手の震えを抑え、マイクを彼女の唇に向ける。
二度目の撮影では、違うものが生まれた。森田さんの小さなため息、手の動き、目の奥の揺れ。絵里は遠隔で、透が押すタイミングと合わせてゆっくりとテロップを入れ、透はその瞬間に自分の呼吸を合わせた。再生すると確かに、画面の中に薄い指紋のような光が浮かんだ。そこには「誇り」ではなく、「寂しさ」と「希望」が同時に存在していることが滲んで見えた。どちらでもない第三のものが、共同の痕跡として残った。
だが代償は明確だった。撮影後、透は頭痛に襲われ、左手の感覚が暫く薄くなった。息をするだけで、口の中に鉄の味が広がる。絵里も通話越しに同じ疲労の気配を漂わせていた。二人の共同性が戻った瞬間、身体は代償を払わせるのだ。
午前中の撮影を終え、喫茶店のみきさんのインタビューの頃には、町の空気はざわめき始めていた。スコア会社のPRが、あちこちの掲示板に貼られ、支援金をちらつかせるビラが配られていた。住民の間で、スコアに従うことが「正しい選択」だという風潮がじわりと広がっているのが見えた。みきさんはそれを恐れていた。
「私、店でそれを出したら、お客さん減るかもしれんよ?」カウンター越しにコーヒーの香りが立つ。みきさんはカップを両手で包み、短く笑った。「だけど、私の店は居心地が悪くなってからお客さんは来なくなった。評価ってのは変な水になるね」
透と絵里はまた共同でカードを作り、みきさんに手渡す。彼女はカードに自分の指を滑らせ、自然な笑い声を吐いた。透は今度は決めつけをせずに、ただ彼女の触れた瞬間を待った。映像に残る指先の温度、笑いの立ち上がり方、カップのわずかな震え。編集室で二人が重ねると、みきさんの「居心地の記憶」が透明な層として浮かび上がった。数秒間だけ、みきさんの後ろに座る常連客の笑い声が薄く重なる。
その映像が広報課の内部の臨時SNSに投稿されると、予想外の反応が来た。町外のあ