町役場の広報課で遠距離を始めるふたりは恋より先に自分を許す 第7話「第6章」
廊下の蛍光灯が音を立てている。よく磨かれた床に、調査委員会の革靴の先が一定のリズムで反射した。広報課の執務室はいつもより狭く感じられた。机の間を埋め尽くすのは書類の束と、出動態勢を整えた会見用のカメラ、そして向こう側のテーブルに乗せられた小さな四角いモニター。モニター越しに映るのは、委員長の小石川恭介――五十代前後、細い眼鏡の奥でこちらの顔を測るように覗き込む。
廊下の蛍光灯が音を立てている。よく磨かれた床に、調査委員会の革靴の先が一定のリズムで反射した。広報課の執務室はいつもより狭く感じられた。机の間を埋め尽くすのは書類の束と、出動態勢を整えた会見用のカメラ、そして向こう側のテーブルに乗せられた小さな四角いモニター。モニター越しに映るのは、委員長の小石川恭介――五十代前後、細い眼鏡の奥でこちらの顔を測るように覗き込む。
「説明するのは貴部署ですね。町の信頼が揺らいでいる。今ここで、一本の『公的な説明』を出してもらう。さもなくば、外部に委ねる。理解しているか」
声は冷たいが事務的だ。言葉の末に棘はない。だがその棘のない言葉の集積が、住民の評価を単一の線に引き寄せる怖さを持っていた。
透は胸の奥が、ぎゅっと絞られるみたいに痛むのを感じた。向かいの椅子には高木課長が座り、手帳のページをめくる仕草をしている。机の上に置かれた携帯が通知音を立て、絵里からの着信が点滅した。長距離。彼女は今日も向こうの小さな町で、荷物の片づけの合間に電話をくれた。声が繋がると、広報課のざわめきが一瞬だけ遠くなる。
「透、どうしてこんなことに……」絵里の声は、予想よりもずっと平静だった。だがその平静は、不意にぴりりとした緊張を伴っている。
「SNSのスクリーンショットが出た。町の職員が個人の見解を役場の公式として出した、という。評判に傷がついたんだ。委員会は『公式の一本化』を要求している。つまり、あのスクショの解釈を我々が決めろってことだ」
透は机の上の白い用紙を指で追った。昨夜、二人で作った報告用のイントロ案がそこにある。彼らができるのは、事実をただ並べるだけではない。共同で作ったものにだけ、互いの痕跡が微かに残る。その痕跡は、言葉にはならない「間」のようなもの、文章の字間に忍び込む匂いや、映像のカット割りが生む息づかいだ。外部の解析には現れない、二人きりの合図。
絵里はモニター越しに画面の向こうで小さく息を吸った。彼女は遠隔地のネット回線の向こう側で、机に肘をついているのが見える。窓の外には引越しのダンボールが幾つか重なり、そこに映る光は夕方の色を帯びていた。
「私たちのやり方で説明できる?」絵里が訊く。言葉は短い。選択肢はもう見えているのだろう。
透は喉を鳴らした。共同制作――二人で作ったものだけが残す痕跡。だがここに委員会が求める「一本化」がある。一本化は、余白や枝葉を削ぎ落とし、誰かが都合のいい結末を貼りつける行為だ。ずっと前から町の広報は、そのやり方で「評判」を整えてきた。透はその図式と、自分たちが持つ能力が似ていることを感じていた。似ているということは、使い方によっては同じものを生む危険がある。
高木課長が顎に手をやり、小さくため息をつく。「我々は公的な説明を一つ出す必要がある。選挙の季節でもある。市長も揺れている」
「でも、もし我々が『これが正しい』と決めてしまったら?」絵里の目がスクリーン越しに固まる。「その瞬間、あの人たちの言葉や事情は切り捨てられる。私たち、誰のための説明をしているんだろう」
その言葉に、室内の空気がほんの少し揺れた。委員長はそれを見て、顎をしゃくるようにする。
「いいや、情緒論は要らない。今回は事実を整理する。住民の不安を収めるための措置だ。広報課には能力が必要だ。速度と断定を、頼む」
速度と断定。それは彼らの能力に対する最も危うい要求だった。痕跡というのは命名されれば消える。はっきりさせようとすればするほど、残るは表層だけになる。走らせれば走らせるほど、共同制作は亀裂を生む。二人はこれまで、その脆さを何度も実感していた。
「やってみるしかない」透は小さく呟く。絵里はうなずき、画面越しに掌を差し出した。それはいつもの合図だ。触れることのできない距離を埋めるための、二人だけの儀式だった。
準備は短時間で始まった。課内の若手が撮影機材を慌ただしく組み立て、記者会見用のセットが整えられる。カメラのランプが赤く灯り、マイクの表面に冷たい指紋が浮かぶ。透はノートパソコンを開き、絵里との共同編集用のクラウドフォルダを立ち上げる。彼女はテキストの行間に、二人でしか分からない合図を忍ばせるつもりだ。映像には、彼らが長年集めた「町の匂い」を重ねる。駅前のパン屋の朝の湯気、祭りの午後の色、夜の庁舎の空気――そういう些細な要素が、二人の痕跡となる。
だが時間が足りない。委員会の要求は即時性を帯びている。絵里の回線は時折遅延し、音声が一瞬途切れる。透は冷静を装いながら、焦りの温度が指先に伝わるのを感じた。共同制作は、互いの呼吸を合わせることに近い。遠距離は、その同調を削ぎ落とす。
「カット割りを変える。最後のカットは市民代表の声を入れよう。住民の普通さが伝わるように」絵里がそう言った瞬間、スピーカー越しに小さな声が入った。だがその隙間に、高木課長が声を上げる。
「待て! 住民代表? それを入れたら事案がややこしくなる。ここは行政の言葉で一つにまとめるべきだ」
意見の相違が会議室の空気に刺さる。透は二人の間で揺れた。絵里の提案は、痕跡を残すためには理にかなっていた。市民の声を混ぜることで、単一化を拒絶する余地を作る。だが委員会は単純な物語を求める。手短に、曖昧さを削る。
透はキーボードを叩きながら思い切った選択をする。彼は最後の数行に、絵里とだけ共有してきた小さな合図を差し込んだ。字面は普通の謝罪と説明文だが、行間には彼らの呼吸が入り込むような句読点の置き方、声色を誘う語感が点在している。触れればいつも分かる。だが同時に、もしそれを誰かが「これがどういう意味か」と決めつけると、そこにあるものは消えてしまう――透はそれを知っていた。
録画が始まった。室内の空気が固まる。カメラの赤いランプが透の視界に小さく浮かんだ。透は椅子の背にもたれ、深呼吸をしてから、用意したスクリプトを読んだ。声が録音され、モニターに自分の顔が映る。言葉は丁寧に、一つ一つを置くように吐かれる。絵里も同じテキストの別バージョンを遠隔で送っていた。二つのバージョンの微かなずれが、共同でしか生まれない痕跡を呼び込む。
だが編集の合間、遠隔のラグが致命的なズレを生む。絵里が入れるはずの生活音、駅のスチーム音が一瞬遅れて重なり、不可解な間が映像に出来た。透はそれを直そうとした。だが手を早めるほど、二人の合致は崩れていく。共同制作という器が、緊張でひび割れ始めた。
「透、今の音、止めて。もう一度」絵里の声がわずかに震えた。彼女は焦りを抑えながら指示を出している。透は操作を戻す。時間は刻一刻と過ぎ、委員長は腕時計を見て、顎を引き下げる。
「時間だ。これで行くぞ」
公開された映像は、予定よりも断片的だった。二人の痕跡は確かに現れていた。だがそれは、外部の目には「曖昧で不明瞭」なものとして映った。記者からの質問が飛ぶ。「その映像は何を主張するのか? 結論はどこにあるのか?」
その問いに対して透たちは答えを出せなかった。絵里は彼女なりの言葉で語ったが、それは単一の「事実」にはなり得なかった。委員長は冷たい微笑を浮かべる。
「これでは住民の安心を取り戻すには足