卒業制作室で成績優秀な落第生は一緒に休むことを覚える 第8話「第7章」
卒業制作室の蛍光灯は、どこかまぶたの裏のような白さを帯びていた。夜の冷たさが窓のガラスに張り付き、外の音を遮っている。木屑と油絵の匂い――混じり合った学期の匂いが、室内の机や脚立に深く染みついていた。
卒業制作室の蛍光灯は、どこかまぶたの裏のような白さを帯びていた。夜の冷たさが窓のガラスに張り付き、外の音を遮っている。木屑と油絵の匂い――混じり合った学期の匂いが、室内の机や脚立に深く染みついていた。
蓮は作業台に片肘をつき、ナイロンのヤスリをぎゅっと握っていた。まひるはキャンバスの端を押さえながら、息を切らしている。二人の声は低く、でも互いに届きたくないほどに鋭かった。透はその間にある古い木のベンチに座り、指先で表面のやすり跡をなぞっていた。手に残る木粉が、彼の光を淡く反射する。
「もう、時間がないのよ。明日の審査に出さなきゃ、卒業単位が――」まひるが言う。声の先には、怒りだけではない、怖さが混ざっている。単位、進路、家族の期待。それらがまひるの肩を細く押しつぶしていた。
「でも、潰して出すっていうのは違うだろ。これ、僕らの作ったものだ。無理に形にして評価に差し出すくらいなら、最後まで磨いてから出したい」蓮はそう返す。その手つきには、作品を守るという確信がある。擦り切れた指の腹には、制作の痕跡が刻まれていた。
透は二人の間で息を吐いた。彼の手のひらの中で、いつものように小さな光がじわりと立ち上がる。能力――二人が共同で作った物にだけ残る「痕跡」が、触れた者のこころ言葉の名残を示す。ただしそれは真実の直読みではない。残るのは痕跡で、示唆で、あくまで手がかりに過ぎなかったはずだ。
だが、ここ数週間、透は自分の解釈を重ねすぎていた。痕跡に勝手に名前をつけ、そこから結論を導く。相手の選択を代わりに決めてしまう癖。今夜、それがどういう代償を生むのか、確かめるような出来事が始まる。
「触っていい?」透は二人に断りを入れず、ベンチの端に手を置いた。寄せられた熱と労働の匂いが、べっとりと掌に返ってくる。光が木の目を伝い、細い線となって現れる。笑いの残響、呟き、ため息。蓮が夜中に黙々と削ったときの手の震え。まひるが急いで押さえたキャンバスの縁で零れ落ちた涙。二つの感触が、互いに重なり合って、隙間を埋めていく。
透はまず、静かに思った。その瞬間、光は小さく震え、映る痕跡はふわりと揺れた。だが、透はそこで言葉にしてしまった。「蓮は、作品を守ることを選んでる。まひるは……評価に出されることが、自分の存在を証明する手段だと思ってる」
言葉が出たとたん、手の中の光が逃げる。痕跡が抜け落ちるように冷たくなる感覚。木の目に沿って走っていた光の筋は、ほんの一瞬で消えた。透の胸のなかに、金属の味が広がる。目の奥を白い圧迫が押し返した。
「なにを勝手に決めてるの、透!」まひるの声が高くなる。怒りだけではなく、裏切られたという痛みが混ざっていた。蓮の顔が赤くなる。ヤスリを握る手に力が入る。
「違うんだ。僕は――」透は言葉を探すが、何も見つからなかった。光が引っ込んだことで、彼の判断材料そのものが薄くなっている。解釈を言葉に変換するたび、痕跡は消えていく。そうして決めつけた瞬間、共同体のかたちが崩れることを、彼は忘れていた。
蓮はベンチに上半身を乗り出し、前腕で木の節を押さえた。「言い訳は要らないよ。君が触ると、いつもこうなる。勝手に見て、勝手に結論を出す。自分が代わりに選ぶことで、僕らの声を奪ってるんだ」
「それが、どうして分かるんだよ!」透は僅かに声を震わせる。彼の掌の光は、今や指先で針のように細くなっていた。手を握ると、光は自ら小さく収縮する。彼はその収縮を止めようとした。もっと強く見ようとした瞬間、手を伝って鋭い痛みが走った。
ベンチの中央、先に接着した板と板との接合部に、くっきりとした亀裂が入った。木の筋が盛り上がり、やすりで磨いた面がかさぶたのようにはがれる。薄い木片がぱりぱりと音を立てて飛んだ。透の掌は木くずで傷つき、血が指の間をつたい落ちた。鉄の味が口に広がる。
「やったな」蓮が低くつぶやいた。怒りよりも、深い失望が滲む。まひるは手を顔にやり、泣き出しそうな声で言う。「これ、もう……審査に出せない。壊れたんだよ?」
破損は物理的な痛みだけではなかった。二人が一緒に作ったものの一部が、無理やり完成させようとしたことで崩れたという事実が、互いの信頼に鋭い割れ目を入れる。急ぐことが共同制作を壊す——説明されてきた制約が、今ここで現実になった。
透は匂いと味の混じった感覚にふらつきながら、机に手をついた。光はまだ指先で細く脈打っている。掌の傷に滲む赤が、光と絡んで不吉にきらめいた。自分が、また決めてしまった。意図せずに、仲間の選択肢を狭めてしまった。
「ごめん」それだけしか言えなかった。けれど、その一言は何かを弁護するには弱すぎた。まひるは肩を震わせ、蓮は唇を噛んだまま背を向ける。空気が耐え難いほどに重くなった。
その時、廊下の自動ドアが遠慮がちに開く音がした。扉の向こうで、誰かが電話を片手に歩く足音。透は瞬間的に身構える。心臓が早鐘のように打つ。
「すみません、夜遅くに」教員の声――学科主任の声がした。透は名前を聞き取った。中瀬主任だ。足音は、階段を上がってくる。彼はここ数日、制作室を巡回していた。評価の流れを管理する立場の人間だ。
「明日の審査は予定通りです。午前八時に審査員が来ますから、それまでには展示を整えてください」中瀬の声が遠くで響いた。滑らかな語調だが、その中に揺るがぬ決定が含まれている。准教授の背後に立っていた職員が、紙をめくる音を立てた。
二人の顔がいっせいに固まった。審査は明日だ。壊れたベンチをどう修復するのか。あるいは、まひるが望むように提出そのものを拒否するのか。時間はない。急げば急ぐほど、共同の痕跡は壊れる。だが放置すれば、進路と単位が危うくなる。
まひるは立ち上がると、小さな声で言った。「私は、提出しない方向で動く。あの制度に私たちの制作が消費されるのはいやだ。活動としての抵抗を起こす」
蓮は首を振った。「それは僕が認められない。僕らの作品は、僕らが守るべきものだ。評価される場で正しく見せてほしい。抵抗は別のやり方でやってくれ」
言葉が空気を切り裂く。二人の立場は割れ、透は二つの選択肢のあいだで縮こまる。彼にはもう一つの案が思い浮かんだ。能力を使わない、封じる、あるいは制限する方法――自分が痕跡に関して示唆するだけにとどめ、決定は仲間に委ねる。しかしその選択は、彼自身の存在のありかたを変えることになる。自分が頼りにされる道具であることをやめること。痛みの伴う放棄だ。
透は深く息を吸った。指の間に残った血をティッシュで押さえる。光は掌の中でほそく、ほそく光る。手を開いたとき、光が指の先からこぼれて床に薄い斑点を作したように見えた。小さいながら、それは確かに弱まっていることの証明だった。
中瀬の足音が近づく。ドアが開いたとき、廊下の白が切り込んできた。彼の口元に紙が挟まっている。透は紙に視線を吸い寄せられる。そこには「審査スケジュール」「午前八時」「委員の出欠確認」と書かれていた。文字は無機質で、意志を含んでいない。その無機質さが、制度の冷たさを際立たせる。
透は紙の角を見つめたまま、そっと手を握る。光はその動きに合わせて、さらに細くなる。今