卒業制作室で成績優秀な落第生は一緒に休むことを覚える 第9話「第8章」
蛍光灯が一本、ぶら下がったままの卒業制作室は、昼間の喧騒を忘れたように静かだった。机の上には未乾きの石膏、乾いた筆先、紙やすりの粉がうすく積もり、窓の外には校庭の植え込みが夜風に揺れる影だけが見えた。長時間の作業で体に馴染んだ木製の椅子に誰かが座ると、きしむ音が低く波打つ。カメラの赤い録画ランプがふたりの横顔をぽつりと照らす。
蛍光灯が一本、ぶら下がったままの卒業制作室は、昼間の喧騒を忘れたように静かだった。机の上には未乾きの石膏、乾いた筆先、紙やすりの粉がうすく積もり、窓の外には校庭の植え込みが夜風に揺れる影だけが見えた。長時間の作業で体に馴染んだ木製の椅子に誰かが座ると、きしむ音が低く波打つ。カメラの赤い録画ランプがふたりの横顔をぽつりと照らす。
「ここで、だいたい雰囲気は伝わると思う」渡がプロジェクターの投影を指で撫でるようにして言った。白い壁に、過去の授業や他者の作品の断片を重ねた映像がゆっくりと流れる。美里は手元の粘土塊を軽く押し、指先に伝わる温度を確かめた。リナはスマホの明かりで図面を拡げ、久保は段ボールから照明機材を取り出しては試験点灯している。
透はその輪の端に立ち、手をポケットに入れていた。展示の中心、彼らが「証言的インスタレーション」と呼んだものは、一見すると連なった日用品のコラージュだった。だが本当に見せたいのは、そこに残された「痕跡」だ。共同制作の過程でしか現れない、指紋や擦れ、糊の厚みが積み重なった場所――透の能力が最も反応するのはそういう物質だった。
「だから、痕跡は説明じゃなくて体験なんだよね。来た人が手を触れると、そこに入っていた関係の重みが伝わる。解説文がいらないくらいに」美里が低く笑う。
「説明文がないと、桐原たちのランキングに負けるって言う人もいるよ」久保が眉を寄せた。桐原の仕掛けた評価システムは数字と見栄えで作品を切り刻む。非公式の展示はその対抗だった。だが対抗であることを声高にするほど、学校という場はそれを喜劇として消費する。透はそのことを思うと胸の奥が重くなる。
「だから、短い映像と体験で伝えたい。夜の制作風景を長回しで見せれば、作っている側の緊張と一体感がそのまま伝わると思う。外側の評価じゃなく、その場にいた人の息遣いが残るように」渡が提案を詰める。
「それを、痕跡のある実物とセットにする。触れる展示を二つ並べれば、見た人は映像を見てから実物をよく観察する。そこにしかない痕跡が、自然に問いを生むはず」透は慎重に言葉を選んだ。彼が能力を使う時、いつもより短く呼吸する自分に気づく。力は便利な道具のように見えるが、使い方を間違えれば、相手の意思を剥がしてしまう。決めつけるほど見えなくなるという掟が、彼の胸の内で冷たく脈打つ。
作業は深夜に及んだ。粘土のこすれる音、のこぎりの重い振動、遠くで誰かが笑った後の沈黙。渡がカメラの位置を調整すると、部屋の端から夜間の長回しを撮る構図が決まる。映像がそのままネットに出れば、制作室の「息」はそのまま外に漏れる。そこに好意的な視線が集まるか、嘲笑が降りかかるかは運次第だ。
「撮影は問題ないけど、内側のやり取りがそのまま出るのは嫌だ」真央が声を絞る。展示プランの輪にいた彼女は、SNSでの反応を最も気にしていた。顔に出ない不安が、指先の震えとして現れる。
透はその言葉で、つい自分の能力のことを考えた。彼は他人の本心を直接読むことはできない。だが共同制作物には、手が触れた順序や圧の強弱、視線の流れといった「痕跡」が残る。触れた者同士の関係の輪郭は、物の表面にうっすらと記される。だがそれを説明的に翻訳する行為――「これは君の未練だ」「これは彼の好意だ」と名付ける瞬間、痕跡は煙のように消える。無理に意味を決めつけることで、関係は物理的にも脆くなる。彼はそのことを、まだ仲間に明確には言っていなかった。怖さがあったからだ。自分の力で誰かの選択を奪ってしまうかもしれない。
「じゃあ、見せ方はどうする?」リナが言った。リナは即断即決のタイプだ。彼女はここで黙っているのを好まない。
美里が指先に粘土を付けて、「触れる場所には、説明じゃなく問いかけを添えたい。『ここに誰の手があると思いますか?』って」と提案した。言葉の曖昧さが重要だ。それは観客の判断を残し、誰かの気持ちを決めつけない。
透はその案に頷いた。だが、次の瞬間、渡のスマホが小さく震えた。チームのグループチャットに、見知らぬ匿名アカウントからリンクが投げ込まれていた。画面には白いサムネイルと短いテキスト。渡が画面を開くと、そのサムネイルが再生された。
映像は粗く、夜の制作室の外からの長回しだった。外側からガラス越しに撮られたような視点で、内部で動く人々の背中、顔の輪郭、作業台の灯りの揺れまでがじっと映っている。編集も説明もない。ただ延々と準備を続ける数十分が小さな四角に収められていた。コメント欄には既に何件かの書き込みがあり、低い嗤い声がこだましていた。「祭り気取りの演出」「裏仕事」「本物の芸術を見せてみろ」――評価の言葉が並ぶ。
「これ……誰が?」久保が立ち上がる。手が震えている。
「匿名だって。しかも、見るからに盗撮だ。撮った奴が外にいる」真央の声は静かだったが、怒りが帯になって乗っていた。
リナはスマホを取り上げ、コメントを読みながら歯を噛む。「このままにしておくと、桐原の連中がまた流れ弾で攻撃してくる。これ、消した方がいいんじゃない?」
「消せない」渡が首を振る。プラットフォームの規約や拡散の速さを説明しようとしたが、その言葉は誰の耳にも届かなかった。画面の小さな四角が、この時空に冷たい風穴を開けた。
透は胸の奥で冷たいものを感じた。見られること、評価されることはいつも怖かった。でももっと怖いのは、見られることによって自分たちの関係が誰かの都合で書き換えられることだ。匿名の視線は、彼らの作品の一部であるべき「痕跡」を勝手に外部の物語に組み込んでしまう。
「この映像、ただ撮られてるだけじゃない」渡が言った。彼は映像を一時停止し、細部を拡大した。画面の端に、プロジェクターのランプに反射して光る小さな四角いものが写っている。カードのようで、光の角度から制服の襟元の色が判別できた。生徒証だろうか。
「もし内部の誰かが、外部に情報を流しているなら……」久保の言葉はそこで途切れた。考えただけで胃が捻れる。桐原側と関係の深い生徒、あるいは表面的には中立を装う生徒会の者かもしれない。
透は喉の奥が乾いた。彼はつい、見えないものを読み取ろうとしてしまう衝動にかられる。共同制作物の表面に残る痕跡を透視するように、映像の一片を「読み取る」ことで安堵を得たかった。だがすぐに自分を止めた。これが決めつける行為に変われば、逆に証拠が消える。彼はその原理を嫌というほど知っていた。
美里がじっと透の目を見た。「どうする? 何か分かる?」
透は息を吸った。指先が微かに震える。能力を使えば、映像の中の小さな痕跡――撮影者の立ち位置の切れ端、誰かの手の圧、足音の残響――に触れることはできるだろう。だがもし彼が「この痕跡は桐原の手下だ」と名付けてしまえば、その痕跡は消えかねない。痕跡だけで対抗するつもりなら、彼は自分たちの関係性を道具にすることになる。
「……僕に任せないで」透は言った。自分の声が思ったより落ち着いていることに驚いた。美里は眉を上げる。
「どういう意味?」
「僕の――僕の力を使って、相手を指差すことはしたくない。もし消えたら、僕が誰かの選択を奪ってしまう。今は、み